その悲しみに寄り添えたなら
久々に泣いてしまいました。
『その悲しみに寄り添えたなら』天野和公著/イースト・プレス
著者の天野和公さんは、仙台でご主人と一緒に単立寺院(特定の宗派に属さない寺院)を運営されています。以前、同著者の『ミャンマーで尼になりました』を読んでいてとても好きだったので、2019年に発売されたこちらのコミックエッセイを購入しました。
Amazonから届いた後、また時間ができたら読もうと置いてあったのですが、昨日の深夜2時に目が覚めてから一気に読んでしまいました。文字通り、枕を濡らしながら。
詳しい内容は省きますが、本書は天野さんが臨床宗教師(宗教の枠を超えて心のケアを担う専門職)の研修を受け、実際に現場で悲しみを抱えた人たちと向き合う日々が描かれています。
もしかしたら勘違いかもしれませんが、ところどころ、私は自分が天野さんと似てるかも、、と思いました。心にどうしようもない傷のあるところが。
私は20代の頃、自分を見つめるワークショップみたいなものに参加したことがありました。その時、人生で初めてというくらい泣いたことがあります。流しても流しても涙が止まらない。自分でも訳が分からない。
泣いた原因は、幼いころのある記憶を思い出したからなのですが、それもそんなに大した出来事ではなく、ちょっとした家庭内の事故みたいなものでした。でも、その泣いた日から20年たった昨日、またその記憶がよみがえってきて涙が出てしまいました。
「自分は役に立たない」
そんな思いが、消したくても消せないシミのように、ずっと心の底にはりついて取れないのです。
私の顔にはあごの左側にシミがあるのですが、生まれた時からあるのでほとんど気にしたことはありません。それどころかチャームポイントくらいに思っていて、消したいと思ったことはない。心のシミも、そんな風に思えたらいいのだけど……
この陰鬱な気持ちも、調子のいいときはすっかり忘れています。特に仏教にであってからは、もう私、大丈夫なんじゃないかなと思っていました。
でも、そうじゃなかった。
無意識に悲しみにあらがい、ふたをしていただけ。天野さんの本を読んで、そのことに気が付いてしまいました。
本書の終わり頃に書かれたこの言葉。ああ、阿弥陀様だなあって思いました。天野さんはミャンマーで修業をして、上座部仏教の戒を授かりました。そして臨床宗教師になってから戒を捨て、還俗(僧侶をやめること)しました。その時、研修の先生から「素のままのあなたが好きです」という言葉をかけられています。
浄土真宗の開祖・親鸞聖人は、「非僧非俗」ー僧侶でもなければ俗人でもないーという立場を取られました。それが聖人の「素のままの自分」だったのかもしれません。
ミャンマーで尼になった人も、比叡山で20年間修業した人も、ただ素のままの自分でいたかった。得度もせず、ただ右往左往生きている私もまた同じ。
「その悲しみに寄り添えたなら」。
これからの仏教活動の、新たなテーマになりそう。
……いや、本来これこそが目的だったのです。
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