「オビ=ワン・ケノービ」5話の展開を振り返り
ディズニープラスで配信中の「スター・ウォーズ」のドラマシリーズ「オビ=ワン・ケノービ」第5話の展開を振り返ります。記事は視聴済みの方に向けた内容となっています。またドラマの性質上、映画作品のエピソード1〜6 視聴済前提にもなっています。あらすじは「さわりだけ」を意識してなるべくサプライズ要素や結末は書かないよう心がけていますが、完全なネタバレ回避にはなっていませんので映画作品も含めて、未視聴の方はくれぐれもご注意下さい。
※今回は考察の都合上、サプライズに触れています!
4話の振り返り記事はこちらです。
PART V
無事レイアを救出したものの、帝国の追撃を受けてジャビームからの脱出を迫られます。基地ではハジャが再登場。状況が状況なので面白おじさん要素は抑え気味でしたが、今後もぜひ彼をフィーチャーしてほしいですね。今回初登場した起き上がり小法師型のドロイドは、2019年のBuild My Droid Contestの優勝者のアイデアだそうです。
今回も見所を紹介していきます。非常に濃厚なエピソードにつき長めです。
第4話の振り返りで各パートがサーガをなぞっていると考察しましたが、今回は小規模ながら「帝国の逆襲」のホス戦(エコー基地撤退戦)に加えて「最後のジェダイ」のクレイト戦のオマージュが感じられました。思い返せば第1話のオビ=ワンには「フォースの覚醒」のレイのような描写があったかも。
パスの設備やどんどん奥に後退していく感じは「スター・ウォーズ バトルフロント2」のギャラクティックアサルトを思い出します。
オビ=ワンの「戦い方は様々(There are other ways to fight.)」という台詞ですが、「エピソード4 新たなる希望」の中でミレニアム・ファルコンがデス・スターのトラクタービームに捕まった時の台詞「勝ち目は無い。こうなったら頭を使って勝負するとしよう。(You can't win, but there are alternatives to fighting.)」に通じるものでした。そのまま台詞の使い回しでは無かったのも良いと思います。
レイアに基地設備の修理を任せる描写は、ダイユーではレイアに対して年相応の子供としか思っていなかったオビ=ワンの変化を感じました。
クワイ=ガン・ジンが自分達の運命を幼いアナキン(のポッドレース)に託したのと同じです。「私はその子を信じている。ハシゴを頼む。」という台詞は、マプーゾや尋問官の要塞での経験を通してレイアの特質を見抜いてのことだと思います。海外ではここに感動を示すリアクションが多いように感じました。不安に囚われるな、直感を信じろ(今に集中せよ)、というのもクワイ=ガンの重要な教えでした。
レイア自身もターラの影響を受けて助けを求める人の役に立とうという意識が芽生えています。オビ=ワンとレイア、ローケンの口から「ハシゴ」という言葉が出ましたが、ハシゴは「一つ上の次元に進むこと(精神的発展)」や「希望」の象徴です。「スター・ウォーズ」は神話宗教のアトリビュート・サイン・シンボルを用いる事があります。多分汲み取れてないものがまだまだありそう。
とにかくオビ=ワンのこのような振る舞いには、ユアンが演じた新3部作のオビ=ワンから、アレック・ギネスが演じた旧3部作のオビ=ワンへの変容(メタな意味でのクワイ=ガン・ジンとの再融合を)を描こうという意志を感じます。
レイアの作業の様子は「エピソード5 帝国の逆襲」でミレニアム・ファルコンの修理を手伝う様子にも重なるものでもありましたね。レイアが修理する小部屋のライティングが青なのも聖性や希望を表していると思われます。
ターラの自己犠牲については、ただのお涙頂戴演出ではなく彼女は帝国軍士官として過去に間違いを起こした告白もしているので罰ととるべきかも。
ジャビームの戦い
「ジャビームの戦い」は「エピソード3 シスの復讐」公開の2005年に展開したスピンオフコミック「STAR WARS: REPUBLIC」で描かれました。
「エピソード2 クローンの攻撃」公開年周辺で展開した「ボバ・フェット」のスピンオフ同様に、新3部作製作当時のルーカスは積極的に映画作品に直接関係するスピンオフに関与していたと考えられ、アナキンのキャラクターに関わるこの作品にも監修があったのではないかと個人的に推測します。
オビ=ワン喪失(後のエピソードで生存が判明)という事態や「クローンの攻撃」直後のアナキンが怒りに任せて友軍の指揮官にフォースチョークをしてしまう場面もこのストーリーの特筆すべき部分です。
また第5話でオビ=ワンが陥った状況は、コミックのジャビーム撤退時におけるアナキンの状況とも似ていますが、結末は大きな差があります。
ドラマ「ボバ・フェット」がやはり「クローンの攻撃」と連動した当時のスピンオフのオマージュや設定再採用していたのと同じく、本作で舞台としてジャビームが選ばれた事にも意味があるように思います。
ダース・ベイダーはアナキン
今回サプライズとして、修行中の二人の様子が回想シーンで描かれました。(ルーカスの)サーガでは回想演出は使われず、割と禁じ手の演出という印象がありましたが、近年はそうした縛りは撤廃しつつあるのかもしれません。現在と過去が交錯する演出は効果的であったように思います。
回想の時期については、アナキンの右手が機械ではないので「エピソード2 クローンの攻撃」よりも前の出来事だと解ります。
ジャビームの戦い以降「クローン・ウォーズ」で描かれるように戦火は更に拡大。そんななかでアナキンはナイトに昇格しています。ナイト昇格は過去2Dアニメ「クローン大戦」で描かれましたが現在は正史から外され、改めて今年5月に発売された小説「Brotherfood」(後述)の中でナイト昇格(あわせてオビ=ワンのマスター昇格も)が描かれています。兵力増強のためジェダイ評議会がパダワンの昇格を急いだという背景があり、アナキンのナイト昇格もこうした事情に基づきます。
クローン戦争でアナキンは将軍として活躍し名声を得ます。実際、彼は「最強の」ジェダイでしたが、本来的なフォースの探求者としてのジェダイ、あるいは人間としての修行は途上だったのかもしれません。
アナキンのパダワンとして共に戦場を渡り歩いたアソーカは彼を「マスター」と呼んで慕っていましたが、彼の最終的な階級はナイトでありマスターへの昇格は最後まで評議会が認めませんでした。(評議会にも過ちはあったにせよ)
前々回の第3話では強大な戦力を率いて邪悪の権化と変わり果てたアナキンを目前に、自責の念に駆られたオビ=ワンは無様な戦いを演じてしまいました。しかし、本エピソードのなかで自分の予想通りに攻撃を展開するベイダーに対し、規模は違えど『アナキンはアナキン(弟子)のままだ』と悟ったように見えます。
結局「ムスタファーの対決」や「クローン・ウォーズ」、「ローグ・ワン」そして「旧3部作」でも同じような失敗(最後に隙を生んでしまう)を繰り返すベイダーは未熟者のままだったということですね。オビ=ワンに指摘を受けた己の短所は、戦争の名声やオビ=ワンに対する憎しみ、ひたすら「力」を求めるシスの教義が邪魔して最後まで省みることはなかったわけです。
「新3部作」と「旧3部作」(「続3部作」まで?)の橋渡しを一生懸命やっているなと感じます。今回ヘイデン・クリステンセンがベイダーを演じる意味も単なる懐古的な再出演ではなくしっかりと意味のあるものになっていて感激しました。
リーヴァとアソーカ
サード・シスターことリーヴァの素性がついに明らかに。
「ジェダイ:フォールン・オーダー」ではセカンド・シスター(トリラ)は威圧されたまま背中から斬り殺されるという最期であったのに対して、リーヴァはライトセーバーで斬りかかりベイダーもこれに応戦。しかしライトセーバーを奪われ追い詰められます。回想のアナキンのように。尋問官を鍛えているのはベイダーです。
勝ち気な性格や命令違反して突っ走る(そして世話を焼かされる)リーヴァに対してベイダー=アナキンはアソーカを重ねて見ていた可能性も感じます。この時まだベイダー=アナキンはアソーカの生存を知らないと思われます。指摘している方も多いですが、本エピソードではベイダーのシーンに「クローン・ウォーズ」シーズン7 「マンダロア包囲戦」におけるアソーカのシーンと重なる画が目立ちました。物語全体が「師と弟子」というモチーフで多重的に構築されています。
また、基地の防御壁の前で攻撃を指揮するリーヴァは「エピソード8 最後のジェダイ」のカイロ・レンのオマージュとも。果たして次のエピソードにも登場となるのか注目です。
スピンオフ作品との連動
この「ケイト・ニモーディアのぶん」が具体的に描かれたのが5月初旬にリリースされた小説「Brotherhood(兄弟の絆)」です。(レジェンズから設定が変更)
またドラマ開始直前に発売された「Stories of Jedi and Sith(ジェダイとシスの物語)」でも、アナキンとオビ=ワンのコンビの活躍を描く短編が描かれました。6月初旬に刊行されたコミック「ダース・ベイダー 23巻」では過去アナキンの身近にいた人物はベイダーの正体に気付くという描写があったり、最近最終巻がリリースされた小説のパドメ三部作で描かれた闘争が「パス」やゆくゆくは反乱活動に繋がる指摘もSNSなどで見かけました。
日本ではこうしたスピンオフコミックや小説の翻訳版リリースが絶えてしまっていて、ルーカスフィルムが仕掛けるクロスメディアをリアルタイムで追える欧米との格差がドラマに対するコアファンの温度差にも繋がっているように感じています。コミックなどはローカライズや日本の漫画単行本と比べると装丁の豪華さも相まって値段設定が高くなるのもネックだったりはするので、電子書籍の形でも良いのでふたたび供給される事を切に願っています。翻訳は誤訳や時代によって(後付けされる設定の変化で)揺れがあるので都度バージョンアップされるような仕様だと現代的だと思うのですが、そういうのはまだまだ先になりそうですね。
本シリーズ、惜しむらくは映像演出・撮影に対する違和感やスタジオセットを感じてしまうスケール感です。そうした点や遊びや余裕が無いことも含めて「マンダロリアン」とどうしても比べてしまいます。それでも設定面で非常に制約が多いうえに難しい題材を扱いながら健闘しているとは思います。
ラストシーンは、あの台詞を終始表情だけで語っていたのが好印象でした。
次回はいよいよ最終回です。