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窓ぎわのトットちゃん(黒柳徹子) 思い出の本⑥
私が言うまでもないことだけれど、この本はとんでもない傑作だ。
そして、見事な日本語の文章の果てしない連続だ。
作者が、自らの幼い頃を思い起こし、そのまま素直な感性で書いたのだろう。しかし、そのリアルな描写ときたら。
目の前にトットちゃんが現れて、動き回っているような錯覚さえ覚える。
そして、トットちゃんが見るもの触るものが、あたかも自らの体験のように心に刻まれる。
トモエ学園のにぎやかな日常が、時空を越えて読み手の心の中によみがえる。
この本は、1981年に出版され、たちまち大評判になった。
その頃は12歳だった私も当然、話題になっていることは知っていたし、多くのクラスメート、とくに女の子はこぞって、この本を買ってもらっていた。
しかし、私はまったく手を出そうとはしなかった。
みんながもてはやすものには安易に同調したくない、というひねくれた根性がこの頃の私には既に根付いていたのだろう。
黒柳徹子はその頃、ザ・ベストテンの司会者を務めており、独特の髪型から「玉ねぎおばさん」と呼ばれて子どもたちにも親しまれていた。
ザ・ベストテンでは、コンビを組んだ久米宏との絶妙なやり取りや、出演歌手たちからぐいぐい話を引き出す巧みな話術から絶大な信頼感を得ていたし、もちろん私も放送される木曜夜9時を楽しみにしていた。
ただ私は、黒柳徹子に対して、この人はテレビの人であって、物書きの専門ではない、という勝手な区分けをしていたように思う。
だから彼女が書いた「窓ぎわのトットちゃん」もタレント本の一種と見なして、一段低い読み物であるかのように位置づけていた。
まったく、我ながら浅ましい考えに凝り固まっていたものだ。
おかげで、この素晴らしい本に出会うチャンスを、長らく逃し続けることになった。
この本を読んだのはずっと後になってからだ。
図書館の書棚でたまたま目にとまり、「どれどれ」という感じでパラパラっと開いて、最初の何ページかを読んでみた。
物語は、トットちゃんがママに連れられて、大井町線で自由が丘の新しい学校へ向かうシーンから始まっていた。
おぉ、と思った。
私は、東京の雪ヶ谷に数年間住んだことがあり、大井町線や自由が丘も生活圏だったため地理的な親近感がまず湧いたのだ。
しかし、そこからいきなり始まるトットちゃんワールドにたちまち引きずり込まれてしまった。
自由が丘の改札での駅員さんとの切符をめぐるやりとりがとてもコミカルかつリズミカルで、こんな文章を書ける人はプロの作家も含めてなかなかいないぞ、とうなった。
登校中の電車でのふとした思いつきで一刻も早く学校に着きたくなり、ドアの前に張り付いてヨーイドンの形で待つ描写には完全にノックアウトされた。
そのまま「窓ぎわのトットちゃん」を借り出して、むさぼるように読んでしまった。
この本は、今では児童書の一種として区分けされることもあるが、いわゆる「ですます」調ではなく、常体の文章が使われているため、「ですます」調が苦手な大人でもすっと読むことができる。
というより、大人向けの書物であっても、ここまで高い密度で読みどころが詰め込まれた作品には、そうそう出会えるものではない。
全体としてユーモアあふれる調子で貫かれているが、一方で学友との別れや、朝鮮人母子の悲哀、戦時色に傾いてく時代背景の中で広がる悲しみなども過剰な感情移入を抑えながら淡々と描かれる。笑いの中に淡々と描かれるからこそ深まる陰影である。
モーツァルトには、ピアノ協奏曲第23番という天真爛漫な音楽がある。第1楽章と第3楽章の天使が躍動するような曲想に挟まれて、深い悲しみに包まれた第2楽章のアダージョがひっそりとたたずんでいる。
「窓ぎわのトットちゃん」を読みながら、モーツァルトのその音楽をついつい思い浮かべてしまう。