朽木(くつき)のシコブチさん − 志子淵神社(滋賀県高島市朽木)
京都と若狭の小浜の間には通称「鯖街道」という古い道がある。
若狭湾で採れた魚介類をできるだけ新鮮なまま京都へ運ぶため、丹波山地と比良山系に挟まれた南北に細長い谷を最短距離でまっすぐに貫いた道、それが鯖街道だ。
今では国道367号線が、ほぼそのルートにあたる。
その街道の中間地点にあたるのが朽木(くつき)だ。
平成の市町村合併の結果、今でこそ広大な高島市の一部分になってしまったが、それ以前は朽木村として琵琶湖沿岸の他の高島地域とは一味違う独自の山村文化と歴史を育んできた。
花折断層が形作る深い渓谷には、清流の安曇川とその支流が流れている。
夏になると琵琶湖から遡上してくる鮎を求めて多くの釣り客が集まってくる。
最も大きな集落・市場を中心に、川沿いに点在する小集落がいくつも連なって形作られているのが朽木だ。
鯖街道は、安曇川に沿うように続いているが、川岸の両側には山の斜面がすぐ迫っており、広い土地がまるでない。
あまりにも狭っくるしくて、昔からこの街道では大規模な軍団を効率的に展開することができなかった。
室町時代後期に世が乱れると、朽木のそういう狭隘な地形が、逆に天然の要害というべき利点となって、戦乱の京都から逃れた足利将軍家が身を寄せる場所にもなった。
現在、朽木岩瀬の興聖寺がある場所には、12代将軍足利義晴や13代将軍足利義輝が、当地の領主朽木氏の庇護のもと長期間滞在し、その間、幕府の行政もここで行われた。
また、織田信長の軍勢が金ケ崎で朝倉氏と浅井氏から挟み撃ちにあったときには、織田軍が敵の追撃をしのぎながら、素早く京都へ撤退するルートにもなった。殿(しんがり)を努めた木下秀吉や徳川家康もこの道を命からがらたどったはずだ。
秀吉に対しては、この朽木越えのときに猿飛仁助が率いる3000人の盗賊が襲撃してきたという逸話もある。
朽木は、狭く閉ざされた地形だけれど、街道が通り、商人や旅人が活発に往来する土地でもあった。
そういう点では民俗学のメッカである岩手の遠野あたりと似たところがある。
そのためか、朽木にも多くの伝説、伝承が残っている。
天狗や、ガタロウ(河童)に関するものが多いが、今回はシコブチさんの伝説について語りたい。
シコブチさんとは、安曇川流域で信仰される川の神様で、次のような伝承が残っている。
この伝承で語られる筏の船頭の名前がシコブチだったそうだ。
安曇川流域では古くから林業が盛んで、つい数十年前まで筏を組んで材木を下流へ運んでいた(私の母方の祖父も朽木でそんな仕事に従事していた)。
筏の仕事は危険で水難が絶えなかったが、昔からそれらはガタロウなど物の怪が悪さをするせいだとされた。
そのガタロウを懲らしめ、𠮟りつけたシコブチは、なんというエラい人だ、ということで水難を防ぐ神様(シコブチ明神)として祀られるようになったのだ。
そして、船頭たちは伝承を守るように、菅の蓑と笠、蒲の脚絆、コブシの梃子(竿)といういでたちで筏に乗った。
今でも、安曇川流域各所には、筏を流す船頭たちの安全を願ってシコブチさんの神社や祠が点在している。
シコブチさんは、それぞれの場所で思子淵、思古淵、志子渕、信興淵など様々な表記をされている。
七つの社(祠)が主要なものとされるが、それ以外にもシコブチさんは存在し、京都市左京区の大原や久多から、大津市の葛川、梅の木、高島市の朽木、安曇川町に至るまで十数か所が確認できる。
挿絵は朽木の岩瀬にある志子渕神社の祠を描いたものだ。
筏流しの船頭たちは、上流の山で木を伐り出し、筏に組んで下流の町まで流し、そこで材木を売り、現金を得ていた。
しかし朽木へ帰るまでに町で遊んで、稼ぎを粗方使ってしまう者もいたそうだ。
昭和の半ばまで、筏流しは行われていたが、今は林業も大きく様変わりをして、材木はトラックで輸送されるようになった。
それでも、各地のシコブチさんは川の守り神として信仰を集めている。
おしまいに鯖街道が育んだ食べ物の話で締めくくろう。
朽木や京都では、この街道で運ばれた鯖を酢でしめて寿司を作った。
それがこの地域の名物「鯖寿司」だ。
鯖街道の鯖寿司は、とても肉厚で食べ応えがある。
また、傷みやすい鯖を長期間保存するために、様々な加工法が考え出された。
その一つが「へしこ」。鯖を塩漬けにして、米糠に漬け込んで発酵させたものだ。
火にあぶって食べると風味が増してとても美味しい。お酒のアテにもぴったり。
また、「なれずし」もこの地域でよく食卓にのぼる。
なれずしこそが鯖街道の名物食品No.1と言う人も多い。
確かに濃厚なチーズのような風味は、好きな人にはたまらないのだろう。
私は、強い匂い(発酵臭)が苦手で、ちょっと敬遠ぎみなのだけれど……。