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三井高利の商法

 みなさんは「三井高利」という人を知っていますか?
江戸時代の商人であり、「越後屋」という呉服商を創業し、画期的な商法で
大成功を収めた超すごい実業家です。
越後屋は明治になって三井財閥となり、現在は跡地にデパートの三越が建っています。
高利の画期的な商法は、現代のマーケティングや経営戦略にも通じるものがあります。

まず、三井高利という人物について見ていきたいと思います。



・三井高利について

 三井高利は、元和8年(1622年)、伊勢国松坂(現在の三重県松阪市)の商家に三井高俊の8番目の子として生まれました。
そして、14歳で江戸に出て、兄の呉服店で商売の修行を始め、その類まれな商才を発揮していきます。早熟な人だったんですね。

 しかし、才能があったせいで兄にうとまれてしまい、28歳のときに母の面倒を見るよう言われ、実家の松坂に帰国させられてしまいました・・・。
クソ兄貴め、覚えてろ!
松坂に帰国した高利は結婚し、10男5女をもうけます。
男子の子供は15歳になると、江戸に送って商売を習わせ、
高利自身は江戸での資金を元手に金融業にも乗り出しました。
このころから金融業をやっていたのか。

 その後、長兄が突然病死したので江戸に戻ることができました。
やったぜ!
このとき、高利はなんと52歳(!)になっていました。
井伊直弼みたいに耐えに耐えた半生だったんですね。
高利は、江戸の本町1丁目(今の東京日本橋)に呉服店「越後屋」を開業します。
しかし、老舗のライバル店が多かったため、高利は「現金掛け値なし」などの画期的な商法を展開することに。
詳しくは後で書きますが、それが当たって越後屋はやがて江戸の人々から
「芝居千両、魚河岸千両、越後屋千両」と呼ばれ、1日千両(!)の売り上げを上げるほど繁盛したそうです、すご!

 越後屋を発展させ京都や大阪にも進出した高利。
晩年、住まいを京都に移し、元禄7年(1694年)、73歳で生涯を閉じました。
高利が一代で築いた財産は7万両以上といわれているそうです。
1両を10万円として、現在の貨幣価値に換算すると約70億円(!)にもなるみたいです、すごすぎ・・・。
しかし、その莫大な財を社会貢献とかには使わなかったみたいですね。
ここが渋沢栄一さんと違うところだな。

 高利は息子たちや娘夫婦たちに数家を創設させ、これが「三井十一家」の元となりました。
その理由として高利は、「一本の矢はすぐ折れる。しかし数本の矢は束ねれば折れにくい」と言う毛利元就の故事を例にし、「それと同じで一家一本、身上一致を原則とせよ」と遺訓しました。
それが、明治以降の三井財閥の発展につながったそうです。

 では次に、三井高利の画期的な商法を紹介したいと思います。

・三井高利の画期的商法5つ

・現金掛け値なし

当時の商慣習は、その場で現金を支払わず、盆と年末の掛け売り(ツケ)でしたが、現金での販売を徹底しました。
これにより、資金の回転率が向上し、より低価格での販売が可能になりました。
掛け売りはツケの回収に時間がかかるうえ、回収ができなければ大きな損失を抱えることになってしまいます。
売主は、ツケの踏み倒しのリスクを軽減するため、代金に「掛け値」を上乗せしていました。
これが、商品価格の高騰を招いていたので、高利は現金での販売に改め、より安い価格で販売したのです。

・店先売り

高利は、得意先を訪問して着物を販売するという方式ではなく、店先に商品の着物を並べて客に着てもらい、販売する方式を取り入れました。
これにより、顧客が自由に商品を選んで購入できる環境を提供しました。
当時の呉服業界においては斬新であり、良質な商品を必要な分だけ安価で販売し、顧客にとっても便利な仕組みでした。
また、この方式で客層を広げることもできました。

・正札販売

高利は、商品に価格を表示し、値引き交渉をなくしました。
当時の商習慣として、売主ははじめに高値の価格を表示しておき、売主と客であーだ、こーだと値引き交渉をして価格を決める、という方式でした。
これにより、顧客は安心して商品を購入でき、透明性の高い取引を実現しました。
「定価で物を売る」という定価制を始めたのは、じつは越後屋が【世界で初めて】だそうです。すごいぜ、高利!

・反物の切り売り

当時、反物は1反を単位として販売するのが一般的で価格が高額になっていました。
高利は、顧客のニーズに合わせて切り売りを行うことで、小さな切れ端でも販売可能にし、価格を低額にしました。
これによって、より多くの人に買ってもらえるようにしたのです。

・広告戦略

広告戦略として、人気の浮世絵師に越後屋の紋が入ったファッション広告の浮世絵を描かせました。
また、雨の日に客に傘を貸して、その傘に越後屋の紋を入れて人目につくようにして宣伝しました。

 こうした、商習慣は現在では当たり前となっていますが、みんな高利が考案したものなのです。

・同業者からの嫌がらせ

 しかし、高利のこうした画期的商法は当時の呉服店業界のルール破りでしたし、
あまりの繁盛ぶりに同業者からの嫉妬も買ってしまいました。
越後屋は、組合から外される、引き抜き、不買運動など、かなり酷い嫌がらせを受けました。
でも、越後屋が両替商に進出し、幕府から御役を命じられると、嫌がらせは影を潜めていったそうです。やはり権威が勝つのか。

 あと、昔の時代劇で悪い町奉行が「越後屋、お前もワルよのう」という台詞を言っていますが、この越後屋は高利の越後屋を指します。
別に高利が悪いことをしていたわけではなく、当時、江戸では越後屋があまりに有名だったのでその名が使われただけのようです。
当時の歌舞伎の演目にも越後屋の名前が使われていたそうです。
それから、昔の時代劇にあったように町奉行の御奉行様は悪いことばかりしていたわけではありません。
悪代官とか悪奉行とかは明治政府が江戸幕府を貶めるために作られたことだそうですよ。

・両替商への進出

 やがて、高利は両替商にも進出し、京都や大阪にも進出していきます。
当初、両替商は呉服業の副業的な立ち位置だったのですが、次第に両替商の規模が大きくなり、両替業の方が主体になっていったそうです。
そして、幕府から為替御用方という御役を命ぜられるまでに至りました。
江戸幕府御用達の両替商になったのでした。
この為替御用方の御役は明治維新で幕府が倒れるまで続き、後の三井銀行(現在の三井住友銀行)の母体になりました。
なるほど、高利の両替商が住銀につながっているんだ。

・三井高利の子孫は現在いるのか

 最後に私の好きな偉人の子孫調べをしてみました。

 三井高利は非常に多くの子供をもうけ、その子孫は現在も多数存在しています。
子孫には、トヨタの会長の「豊田章男氏」もいるそうです、なんと!
三井家は、浅田財閥の「浅田家」や住友財閥の「住友家」とも親戚関係だそうです。

 高利の興した「三井十三家」は、現在、「三井11家・6本家5連家」に
続いているそうです。
ただ、直系の子孫が表立って活躍しているわけではないようですね。

 現在でも三井グループの関連会社に関わっている子孫はいるそうです。
「三井住友海上火災保険」・「三井物産」・「三井不動産」・「三井の財団や公益法人」などに現在も高利の子孫たちが役員として関わっているそうです。

 現在の三井家は、「三井永乗(みついひさのり)」という人が12代当主だそうです。
しかし、この人は三井グループの経営に携わっているわけではありません。
建築家であり、三井記念美術館のインテリアデザインをつとめているそうです。
三井グループは現在創業家である三井家の手を離れているみたいです。

・まとめ

・三井高利は、呉服商越後屋を開業し、後の三井財閥の祖となった人物です。

・三井高利は、「現金掛け値なし」などの画期的な商法を展開し、越後屋は大いに
繁盛しました。

・越後屋はそのあまりの繁盛ぶりに同業者から酷い嫌がらせを受けました。

・越後屋は両替商にも進出し、幕府から為替御用方の御役をいただき、御用達となりました。

・三井高利の子孫は数多く存在し、現在の当主は三井永乗という人です。


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諸葛鳳雛@真・歴史探偵
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