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べらぼう関連【鶴屋喜右衛門 -蔦重最大のライバルであり盟友-】
【序文】
大河ドラマ「べらぼう」に陰険なヤツとしてでてくる鶴屋喜右衛門(つるやきえもん)。
実際はどのような人物だったのでしょうか。
今回は、鶴屋喜右衛門こと鶴喜を取り上げたいと思います。
【地本問屋を仕切るボス】
鶴屋のルーツは京都にありました。
元々は京都で本屋の商売をしていましたが、江戸へ支店を出してきたのです。
江戸時代は、大阪や京都は上方と呼ばれていて、商品も経済力も江戸より上でした。
なので、初期の頃は京都に本屋がよくできていて、江戸に支店を出すという形だったそうです。
江戸へ支店を出したのが、鶴屋の息子なのか、暖簾分けした分家なのかはわかりません。
そんな鶴喜は江戸で根を張り、やがて名門となっていきます。
鶴喜の店の名は「仙鶴堂」といいます。
ドラマでは、地本問屋のリーダーとして登場しますが、実際に地本問屋を仕切るボスだったようです。
かなり力のあった大物と言えますね。
【次々とヒット本を連発】
鶴屋喜右衛門は現代にもその名を知られるヒット本を次々と出版しています。
まず、寛文12年(1672年)に「武家百人一首」を出版します。
武家百人一首とは、鎌倉時代から室町時代の武士の和歌を集めたものです。
源頼朝や義経などの有名武士から室町幕府第11代将軍・足利義澄というマイナーな人までの和歌が収められています。
また、喜多川歌麿や栄松斎長喜、北尾政美などの有名浮世絵師の作品も出版しました。
喜多川歌麿は蔦重が育てた絵師だったのですが、距離を置くようになってからは、なんとライバルの鶴屋のところで浮世絵を出版していたのです。
そして、戯作者・山東京伝の黄表紙を巡って蔦重と争っていた、ともいわれています。
このように、鶴屋喜右衛門はなにかと蔦重と因縁があって、最大のライバルとも呼ばれるべき存在でした。
しかし、その割には両者ともバチバチとやり合った記録はないんだとかで。
ドラマでは、鶴屋は蔦重を蛇蝎のごとく嫌っていますが、実際はお互い認め合う仲だったのかもしれませんね。
【鶴喜の最期】
文政12年(1829年)3月に起きた文政の大火によって、鶴屋の店仙鶴堂は燃えてしまいます。
しかし、それでもめげない鶴喜です。4ヶ月後には建物を修復し、営業を再開しました。
そして、柳亭種彦の「偽紫田舎源氏」を出版し、経営を立て直します。
これが当たって大ヒットしました。
このへんは、定信に財産半分没収されてもへこたれなかった蔦重を彷彿とさせますね。
偽紫田舎源氏とは去年の大河の主人公紫式部の源氏物語をベースに、室町時代を舞台として書かれたものです。
また、歌川広重の「東海道五十三次」を新興の保永堂と共に出版し、更なる巻き返しを図ります。
保永堂とは江戸時代後期の浮世絵師の竹内眉山という人がやっていた地本錦絵問屋です。
そう、あの超有名な歌川広重の「東海道中五十三次」の浮世絵を出版したのは、鶴喜なのです。
蔦重が葛飾北斎の浮世絵を出版していますから、鶴喜はライバル絵師の歌川広重の絵を出版していたのですね。
ところが・・・そんな鶴喜に突然最期の時がやってきます。
天保4年(1833年)、鶴喜は脳卒中で急死してしまったのでした・・・。
享年46。
店を建て直そうとして働きすぎたのが原因だったのでしょうか。
大変酒好きだったので、そのせいとも言われています。
鶴喜は何代もいて、いろいろとエピソードはあるのですが、記録がなくて何代目のことかよくわからないそうです。
ただ、この脳卒中で亡くなった鶴喜は2代目だそうです。
【その後の鶴屋】
天保5年(1834年)2月には、当主の死に続いて泣きっ面に蜂という感じで、日本橋で起きた大火災によってまたも店が焼けてしまいます・・・。
「東海道五十三次」シリーズは保永堂が単独で出版することとなりました。
一躍有名になった保永堂はその後も様々な広重作品を出したのでした。
また、大ヒット作だった「偽紫田舎源氏」ですが、「大奥について書いている」とか「主人公のモデルは徳川家斉公だ」とか、根も葉もないことを噂されるようになり、ワルの水野忠邦の天保の改革で処罰され、絶版処分となってしまいました・・・。
これ以降鶴屋は衰退に向かうことになります。
それでも、鶴屋は明治まで続いたそうです。
【鶴喜と蔦重の本のエピソード】
鶴喜と蔦重の出した本にはこんなエピソードがあります。
江戸時代から幕末まで毎年刊行されていた川柳の句集「俳風柳多留」では、
「鶴に蔦こたつの上に二三冊」という句が掲載されています。
これは、こたつの上にはいつも鶴喜と蔦重の店の本が2・3冊のっているという意味の句です。
このことからも、鶴喜は蔦重と並び称されるほどの本屋だったことがうかがえます。
両者との当時の江戸庶民の暮らしには欠かせない本屋でした。
そして、お互い良きライバルであったようです。
ドラマでも蔦重と鶴喜の関係は次第に変化していくのかもしれませんね。
【終文】
江戸の本屋というと蔦重ばかり取り上げられますが、鶴喜も蔦重に負けないくらいの本屋でした。
現在にもその名が知られる本を何冊も出版しており、あの歌川広重も鶴喜の本屋から浮世絵を出していました。
蔦重と並び称されるほどの本屋だった鶴喜。
鶴喜も蔦重のように江戸文化の発展のためにはなくてはならない存在でした。
そして、実は仲がよかったとも言われる両者。
鶴喜と蔦重はライバルでありながら盟友でもあった、のかもしれません。
余談ですが、アプリ名字検索netで「鶴屋」という名字の人を調べたところ、今でもおよそ「210人」いました。
このなかに、鶴喜の子孫がいるかもしれませんね。
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