次郎
その名の通り。 一般信者による雑念note。
受験生の息子が勉強しません。 行ける学校がないです。 ある親は言う。 「勉強なんてしないでも生きて行ける」 確かに そうなんです。 私の経験からも。 学校で学んだ つまらない学問より 社会で学んだものの方が役に立っている。 じゃあ。 なんで勉強するのか。 それは 人生を楽しむためです。 学びがあるから 遊びがある訳で。 学びがあったら 金の稼ぎ方だって 何が悪いことなのかだって 今まで見た事のない世界だって 見えるかも知れない。 座って学べるうちは とにかく
私のnote。 立場で記事は書かない。 立場でコメントしない。 そう思っている。 一人の人間として。 正直に生きたいだけ。 そこにある立場という鎧。 自分を守ってくれてるのか。 苦しめているのか。 ただ。 神のご守護は 全身で浴びれないのかも。
今日は仕事の前に病院で所用。 受付開始まで並んでいる。 雨が降り始め。 用意周到な人は傘を持っている。 私は傘を忘れたが 仕事柄、カッパを持っていた。 列に並ぶ人々はまばらに 傘を持たぬ人がいた。 それでも2人は入れそうな傘を持つ者が 「良かったら、お入りください」 という者は1人もいない。 私は男性だから 私には抵抗あって然りだが 隣合った女性同士でも それがない。 もし 断られても良いと思う。 それでも 気持ちは伝わるから。 でも 声も掛けないのは なんか
書き途中のnote。 かっこのいい文字が出ず。 公開に至らない。 きっと ひとことで良いと思えた。 拙い。 失敗ばかりの文字を。 それが 大きな成功より 大きな財産になるであろうから。 もっと書きます。
昨日は不思議なことが起きた。 昨日の仕事は 自宅から北西へ25km離れたAという市で仕事。 Aから60km南のBという町まで移設の仕事。 その後、更に8km南下してCという町にある自教会の兄弟教会へ回収の仕事。 ちなみにCまでは普段まず行かない。 約半年ぶりである。 総移動距離100km近い上に肉体労働。 それでも仕事があることはありがたい。 Aに設置された物を回収して Bへ向かうが、お客さん立ち会いだったので タイムラグの1時間を埋めるために B付近の知人のもとで30分
昨年の6月までサラリーマンをしていた。 そこから 弟子入りして。 親方に騙されて 11月には独立した。 信念を以て働く。 そう思って弟子入りしたが それは その考えに共感したフリだけで 実際は その考えを利用された。 というのが本当らしい。 サラリーマンの時。 『はたはたを楽にする』という信念で 仕事に取り組み 人の嫌がる仕事は率先してこなした。 結果。 「あいつは上に媚びってる」と言われたり 嫌な仕事だけ回されるという 負のループになった。 当時を思い出すと 口癖
1つの物。 同じ位置から覗く。 同じものを見てる。 それなのに。 この人と どうも とらえてるモノが違うみたいだ。 それ。 立場でモノ見てないか? 原点に立って 同じ人間にとして 見たなら 同じモノ 覗けてるのかも。 【昨日、息子に高校受験について叱った反省】
なんの自慢にもならないが 私は子どもたちを 【こどもおぢばがえり】に 連れて行ったことがない。 こんなことを言えば お道の中では非国民と 非難を浴びそうだが。 お好きなように! と思っている。 理由もある。 昨年までサラリーマンをしていた私。 8月といえば13日あたりから連休になる。 それを目前に「有給ください」なんて言えない。 有給は権利だから!とはいえ 社会通念上、誰もそんなことはしない。 私の自宅から、おぢばまで車で7時間ほど。 会長たちは『仕事終わってから走っ
理屈を抜いて話します。 年祭活動が始まると 【三年千日】というワードが まぁよく出ます。 更に10日後。 というのの引用を 年祭活動にあてて引用してると思われる。 たとえば振り返って 年祭を迎えたときに 『あっ!ご守護頂けた』と実感する者が それほど多いとは私は思わない。 よくよく探し出して 「これがご守護だったんだよね」 くらいの人が多い。 ただ。 ほとんどの信仰者に言えるのが 【明日をも見えない状況から救い出された】 そんな経験から、この道に着いたのではない
朝づとめは 朝を迎えられた感謝と 今日一日のお願い。 夕づとめは 今日一日の感謝と 明日へのお願い。 感謝だけで通れれば良いのだが 人間というのは 用心深く そして 欲深い。 だから。 実際はお願いしている。 この僅かな文言。 これを朝21回 夕方に21回。 合わせて42回。 日に42回も「人間の心を入れ替えるので、一切のほこりを心から払い、どうかお救けください」 ってお願いする訳です。 いいですか。 42回お願いする訳です。 どうです?しつこいです。 日に42
仕事柄、不動産屋と取引があります。 ある時 不動産屋の担当者が 「家なんて9割は人件費ですからねぇ」 って。 世界の陽気普請も 9割が人件費であってはならない。 そう感じた日。
天理教の原典といえば おふでさき みかぐらうた おさしづ であるのは言わずと知れたこと。 おさしづと言えば 教祖や飯降伊蔵を通して口述された教えを筆録されたものを指す。 明治8年頃に教祖より【扇のさづけ 言上の許し】を頂き、悩める者に親神天理王命の言葉をお取次ぎされた。 その中に、親神様の神意を説いたものを【刻限】といい、人々の悩みなどの問いかけに対しこたえたものを【伺い】という。 祭典講話などで引用されることも多く、特に人々の悩みについて書かれた【伺い】に関しては、
天理教とは、どんな信仰ですか? と聞かれたらどう答えますか。 という練合があるとします。 私の回答は 「私にとって最高の教えです」だけ。 『私を見てください』などという二代真柱氏のようなことは、とても烏滸がましくて言えません。 でね。 『人たすけたらわがみたすかる』という教えです。 という方よくいますし よく聞きます。 なんて言うか。 の引用はわかるんですが。 その…天理教のキャッチフレーズのような扱いに 最近、もやもやした気持ちでいっぱいです。 聞こえが良く。爽
教会長になるのに【お運び】という 通過儀礼がある。 正式には【事情運び】というようだが。 これは、願い出てお許し頂いたが 何らかの理由により存続できなくなった 事情を運び 改めて許しを乞う。 という意味があるようだ。 たとえば 先代会長が出直した場合。 信仰的には115歳が定命で それより先は心次第でいつまでも 置いてもらえる。 加えて たいしょく天のみことの守護により 出直しのとき、息を引き取る世話を頂く。 これ、あくまで【世話】であるから 出直しというのは自ら選ぶので
と言う奴が私である。 と言われそうなので、予め書いておく。 私は教会長でもないし。 ただ苦節しながら教人になっただけ。 専修科も出てないし。 天理の学校も出てない。 青年勤めもしてない。 理論武装で理屈っぽいだけ。 それでも 自分が経験した人生を頼りに 自分にしか出来ない【お助け】をしたい! それだけの話。 私が見てきた天理教は この【おふでさき】だった。 そこに、苦しんでいる者がいるのに マゴマゴして、或いは見て見ぬふりして 最後だけ「心配してたんだよ」なんてこと。
長男が修学旅行から帰ってきた。 あれやら これやら お土産が出てくる。 「これは、○○と一緒に買った」が多い。 年頃の子だから 色んな人の影響を受けたんだろうな。 ときに 人は人に騙され。 ときに 人に人に助けられ。 その人の影響で 角が取れて行くのだから。 それで良い。