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嵯峨野の月#74 征夷大将軍殿の憂鬱

薬子10

征夷大将軍殿の憂鬱

開け放した庵の戸から夕焼けの光が差し込み、
紅や黄色のもみじがはら、はら、と苔むした地面に落ちていく。

その光景を
「美しいな」
「ほんに美しいですねえ…」

と互いの背にもたれ合い、しばしうつつを忘れて見つめている一組の夫婦がいた。

坂上田村麻呂と三善高子夫妻は嵯峨帝より十日ばかりの休暇を頂き、ここ音羽山に建てた別荘で心和むひとときを味わっていた。

「間もなく夕餉の膳をお持ち致しますゆえ」
と火鉢を持って現れた初老の僧、名は延鎮えんちんという。

あれは三十年以上前だったか、高子が初めて子を身籠り
「でかした高子!精を付ける為に鹿肉を食わせてやるぞ」
と勢い込んで山の奥深くに馬を走らせに来たものの、獲物は見付からず喉が乾いて偶然滝を見付けて手で掬って水を飲もうとした時…

「もし、そこの貴人の方。ここは殺生を禁じる聖域ですよっ!」

と煤けた柿色の衣を着た僧侶に厳しく叱責された。
剃髪していなかったら修験者だか私度僧だか解らぬ彼の荒々しい風体に当時二十歳前の田村麻呂はすっかり面食らい、

「そ、それは済まなかったな…身籠った妻の為に鹿狩りに来たのだ」と正直に訳を話した。
「それはめでたいことです。が、健やかなお子の誕生を願うなら殺生よりも拙僧の話を聞いていかぬか?庵はすぐそこにあるゆえ。我は法相宗の賢心」

と無精髭に覆われた顔をほころばせた中年僧は若い武官を誘った。

こいつは何か面白そうだな。

と田村麻呂はほとんど掘っ立て小屋に近い庵で賢心の夢に出てきたという十一面観音菩薩の話にすっかり魅力されてしまった。

「それにしてもあの時は驚きました…朝狩りに出ていかれた殿が夕刻帰って来られた時には『おい、寺を建てるぞ』だなんて」

と、夕餉の膳をいただきながら高子がくすっと笑った。

殺生上等。それが武官の務めさ。

と胸をそびやかしていた夫が世捨て人同然の僧侶のお話で仏教に転ぶだなんて。

「でもお陰で倅の大野が無事に生まれたではないか。その大野ももう30、坂上家の跡取りとして申し分なく育った…なあ高子、お互い年を取ったな」

「そうですわねえ」

こうして観音信仰に帰依した田村麻呂は賢心に山荘とご本尊の十一面千手観音を寄進して出来た寺を音羽山に流れる滝を見つめながら、

清水寺。

と名付け、賢心は延鎮と名を改め清水寺の開祖となる。

隣で高子の穏やかな寝息を聞きながら田村麻呂は立場も官位も忘れて安らいでいられるのは、

これが最後であろうな。と予感していた。

「年明けには上皇さまが平城宮にお移りになる。上皇側の臣である中納言、藤原葛野麻呂を調略して朕の側に付かせよ。これは中納言の幼馴染であるお前にしか出来ぬことだ」

という嵯峨帝じきじきの密命を田村麻呂は受けていた。


「どうやら尚侍どのは相当焦っておられるようだ」

と言って和気広世は空海の前に蒔絵の箱を置いた。空海、広世、逸勢、蓼が布で口を覆ってから箱を取り囲み、

「あまり息をせずに、開けたらすぐ閉じて」

という広世の言葉にうなずいてから空海が蓋を開けると中身は何の変哲もない画の道具が一式揃っているが、筆だけが薄紙に包まれ、糊で封をされた跡があるのが不自然だった。

広世の指示通りに空海は直ぐに蓋を閉めた。

「宮中には毎日山のように献上品が届けられます。直接皇族の方々のお手に渡る品は宮中で検閲をされますがその中で特に怪しい、と思われた物をこの広世めが調べることになっております…」

「成程、宮中には毒味役がいますから食べ物に毒を入れる訳にはいかない。だったら触れて効果のある毒を普段使うお道具に、という事でっか」

空海の指摘にその通り、と広世はうなずいて、
「この箱の中の筆の穂先に、丹(水銀)の粉がたっぷりと。
致死量ではありませんがこれをご懐妊中の橘の夫人様が触れでもしたら流産は免れない。最悪の場合、早産で母子ともども」

「つまり尚侍は嘉智子さまとお子を狙っているってことか…」

と怒りすぎて蒼白になった顔で逸勢が呟いた。

無理もない、橘家の従妹で最愛の女人が命を狙われたんや。

と逸勢の嘉智子への思慕をただ一人知る空海は、かっての学友の心中を慮った。

「朝原内親王さまとのことといい、伊予親王さまのことといい、もはや尚侍どのは手段も結果も考えず帝に仇なすつもりなのでしょう…次は何をするか解らない」

といま嵯峨帝と後宮に迫っている危機を痛感した広世は父の縁故を頼って吉野の修験者たちを都に呼び出した事を空海たちに告げた。

「帝のお許しひとつで我ら修験者たちは隠密裏に玉体を警護しますゆえ」

「隠密裏に、って宮中の武官たちにばれずにか?そんなことが出来るのか?無理無理!」

と、逸勢が門をくぐるたびにいちいち名前と身分を告げなきゃならない宮中の警備体制を思い出して顔をしかめ、手をひらひらさせた。

「いえ、たやすくそれが出来るのが修験者たちなのです」

と彼らと一年寝起きを共にした空海は音も無く山中を走り回り、気配ひとつ立てずに標的の背後を取る修験者たちの恐ろしさを肌身で知り尽くしていた。

夜御殿よのおとどに御寝なされていた嵯峨帝はおもむろに目を覚まし、

(誰ぞ、そこにおるのか?)

と枕辺の人影に語りかけた。
全身黒ずくめのその人物は頭と口元を黒い布で覆い、切れ込んだ二重瞼の眼だけが自分の顔を覗き込んでいる。

(…空海が言っていた修験者の頭だな。よくここまで来れたな。誉めて遣わす、名は?)

男は口元の布を取り、頭巾を取って垂髪をさらし、

(我が名は賀茂のタツミ)

と小声で名乗った。年の頃は四十がらみの鼻梁が高いいい顔立ちをしている。が、その目付きも片足を付いてうずくまる仕草も一分の隙もない。

実は嵯峨帝、貴族たちに内緒で修験者を雇うかどうか、空海とある賭けをしていた。

「もし誰にも気づかれずに夜中に朕の枕辺まで来れたら好きにさせてやる」と。

朕は賭けに負けたな…と嵯峨帝はわずかに枕から顔を上げ、
(よし、今よりお前ら修験者を宮中の護衛として雇う)
と宣言した。

ありたがたきしあわせ、とタツミは一礼してから、頭巾を被り直し、

(先ほどまで上皇さまの寝顔をゆっくり拝顔して参りましたよ)

と笑いながら言うとそれではと足元の闇の中に消えていった…

今のタツミの言葉は朕の命令ひとつで兄の生殺与奪は思いのまま、という意味か。

どうやら朕はとんでもない連中を雇ってしまったようだな。

「これで安心して眠れる」

と嵯峨帝は目を閉じてそのまま朝まで熟睡した。

葛野麻呂と田村麻呂の付き合いは元服前から遡る。

そのきっかけは葛野麻呂がいつものように格下の家の子をからかって壁に押し付けていた時、通りかかった子供に

「藤原のご子息にしては見苦しきおふるまいではありませぬか?」
と咎められ、
「何だと!?」と兄弟たち三人がかりで殴りかかった結果、

十を過ぎたばかりの子供に素手で完膚無きまでに打ち据えられた。

悔しくて父小黒麻呂にその事を言いつけると、

「その子は坂上家の次男坊であろう?馬鹿者が。因縁をつけたお前が悪いし、情けない。頭を下げて謝って鍛えて貰うんだな!」

と逆にきつく叱られた。こうして葛野麻呂は
自分より3つも年下の田村麻呂に稽古を付けて貰う間柄になった。

それから40年経ち、今や共に正三位までに出世した二人は羮《あつもの》(鍋物)を肴に酒を酌み交わし、
「身分低い坂上家には不釣り合いな高い官位を賜ってしまいました…」と田村麻呂がこぼすのを、

「それはお前が蝦夷征伐で手柄を上げて来たからだよ。帝の正当な評価を堂々と受けとってれいばいい」
と葛野麻呂は激励し、飲め飲め、と杯に酒を注いでやった。

「今日来ていただいたのは改めてその時のお礼をしたくて」

と田村麻呂が箱から取り出し、渡してくれた書をめくって、

間違いない、これは父上の直筆だ…と食い入るように文面に見入った。20年前に朝廷軍がアテルイ率いる蝦夷軍に大敗した時の詳細な聞き書きを担当したのは、葛野麻呂の父、藤原小黒麻呂であったのだ。

「貴方のお父上の綿密な聞き書きと状況報告が無ければ蝦夷の戦力も解らなかったし、この田村麻呂も敗死していたやもしれませぬ。さすが完璧主義と言われた小黒麻呂どのだ」

期せずして葛野麻呂は13年前に逝った父と文書を通して邂逅することになった。

父上。父上。こうして田村麻呂と友誼を持たせてくれたのもあなたでしたね…

と目頭を熱くする葛野麻呂に田村麻呂が、

「ところで尚侍とその兄の事だが、あの二人は父親の本当の仇が誰か知ってて過ぎた振る舞いをしている。としか思えないのですがね」

と急に話題を変えたので葛野麻呂は解りやすく顔色を変えた。

「やはり、わざと真相を伝えたのはあなたでしたか」

田村麻呂の目がすうっと刃のように細くなった。
なんて奴だ。情に訴えてわざとこちらの心を緩ませ、虚を突くとは…

「酒が、足りなくなりましたね」

とぽん、と手を叩いて妻の高子に酒肴の膳を用意させ、高子が下がるのを見計らって、

「安心して下さい。あなたが尚侍の父を暗殺した実行犯、大伴竹良と大伴継人の首をはねたのも、私が早良親王の子を身籠った大伴娘を暗殺したのも私達だけの秘密です」

と言い放って「もうお飲みにならぬのですか?」と杯を勧めた。

「…一体、何を望んでいる?」
父の書を膝に乗せたまま葛野麻呂がやっと口を開くと、

「なあに簡単なこと、ある宮女と一度会見していただく。それだけです」

ある宮女、と聞いてそれが帝の子を身籠って休養している我が娘、明鏡のことだと葛野麻呂はすぐに気付いた。

「…帝がお前にそれだけの信頼を寄せていたとはな!」

「私はこれでも帝の外戚ですよ」

田村麻呂は嵯峨帝の妃、高津内親王の叔父にあたり、図らずも彼は天皇の外戚になってしまった。

それにね、と田村麻呂はぐびり、と杯を干し
て心から笑顔になった。

「あなたが姫君の父だと今まで名乗らないでいてくれた事が、私には嬉しいんだ。野心家で知られる葛野麻呂様が、その姫君には本当の愛情を持っている」

「…」

本心を言い当てられた葛野麻呂は押し付けられた杯を黙って飲み干し、

「会見の申し出、受け入れた」と澄んだ目で田村麻呂を見返した。

その目を見た田村麻呂は野心も保身も振り捨てたいい顔だ。と思った。

「ねえ葛野麻呂どの。
私はせめて我が手に掛かった人達は成仏出来るように、と仏教に傾倒し、善人になろうとした中途半端な悪人で、
あなたは北家の栄達のために自ら手を汚し、式家の取り潰し工作の裏で手を引いているつもりが実は我が娘を庇っている悪人になりきれない中途半端な善人…
結局善悪どちらにも転べないのが人間の本質なんじゃないですか」

と田村麻呂と葛野麻呂は互いをいたわるようにしばらく見つめあった。
それは、己の真の心に逆らい苦しんで生きてきた者同士だけが持つ心の交流であった。

「お酒が過ぎたようですね、今夜はどうなさいますか?」

「…いささか政務続きで疲れた、泊めてもらえまいか?」

「もちろんですとも」

中納言さまが床につかれました。という高子の報告を聞いた田村麻呂は、

後は、明鏡さまと葛野麻呂どのの会見の時と場を設定しなければだが、

帝、根っからの武人である我には調略という任、いささか重うございますぞ。

さていつまでこの憂鬱が続くのか…

と溜め息をついた田村麻呂は夜着に着替えた高子を抱き寄せ、
「ま、このおうなを慈しんでくれますか?」互いに老境なのに、と妻に呆れられた。

「よいではないか、寒い夜だから温まろうぞ」

その年の暮れ、嵯峨帝は夕餉の後急に腹痛を訴えて倒れ、帝のご発病により正月の朝賀は中止。という事態になった。

帝のご病床に馳せ参じた和気広世がひととおり診察を済ませると人払いを頼み、空海と三守、冬嗣だけが残った室内でおもむろに手を付き、

「申し上げます、帝のご病名は…仮病でございます」

と神妙な面持ちで言うと丹田のあたりからせり上がってきたこそばゆさに耐えられず、その場で腹を抱えて笑い出した。

「いや…もう…帝の腹痛の芝居のわざとらしさにはこの広世、可笑しくて可笑しくて笑いをこらえるのに必死でした!」

広世のあまりにも遠慮ない笑いと空海たちの

「腹痛をしたことが無いお方ゆえのわざとらしさでしたね」
「芝居の下手さに却って怪しまれないかと冷や汗ものでしたよ」

という演技の酷評に、

「し、仕方ないではないかっ!経費削減の為の苦肉の策ぞ…」

と嵯峨帝は枕頭で本気で恥ずかしがった。

「しかし笑ってばかりもいられませんぞ、膳部(宮中の厨房)に潜ませておいた修験者が、帝の膳に毒を盛ろうとした料理人を捕らえたからこその大芝居ですからね」

と薬師として嵯峨帝を警護している蓼は笑い転げる貴人たちを嗜めると、

まったく宮仕えしている方々というのはこの非常時に…相当肚が据わっていなさるのかそれとも、たがが外れているのかのどっちかだ。

と呆れ果てた。

帝、ご発病。

の報を聞いた平城上皇は「これで安心して内裏から出ていける」
と呟き、愛妾である藤原薬子に
「お前もしばらく大人しくしていろ」

と最愛の女人が危険を冒して帝とその家族に毒を盛るのを止めるよう命じた。


後記
田村麻呂と高子夫妻のフルムーン旅行。
「寒い夜だから」のフレーズTRF世代の作者。

























































































































































































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