嵯峨野の月#96 光の時代・前
第4章 秘密13
光の時代・前
いくら僧姿に身をやつしていても、
太上天皇という立場からは死ぬまで降りることが出来ないのだな…
と出家して一年余、平城上皇は日々痛感していた。
「費用がかかるゆえもういちいち離宮にご機嫌伺いに来なくてもよい」
と形式だけ奈良の離宮に遣わされる使者たちを追い返す度、掲げた杓ごしに自分を見上げる貴族たちの、
こちらも不承不承なのですが、しきたりですので。
と言いたげな目つきが煩わしかった。
政変に負けてからは離宮に仕える人員が削減され、宮女たちに交じって特に選抜された奈良の僧侶たちが自分の世話係となった。
政からも離れ、読経をして朝暮の勤めを終えて気が付けば季節が移ろいゆく…
こうした日々を上皇は惨めだ、とも寂しい、とも思わずただ静かだ。と安らかな心持ちで過ごしていた。
上皇には幼少の頃から多くの人に囲まれると心の臓が躍る、という持病があった。
生まれつき感受性が高く、人からの刺激が許容量を超えると心の臓が締め付けられるようなり、目の前の相手を追い払わねば!という恐怖に駆られた。
思えば自分の暴力癖は、人への怖さからくるものだったのだ。と気付いたのは出家して三月経ってからのことだった。
もし出家していなかったら自分のどうしようもない欠点の原因に向き合うこともなく人生を終えていただろう。
ああ、私は皇族ではなく人間安殿としてこのような暮らしを切に望んでいたのだ。
と上皇は満足して暮らしていたが…
一つだけ、上皇には人に言えぬ悩みがあった。
異母弟の伊予親王が死して間もなく夢に現れるようになり、最初は御椅子に座る自分を見上げる。
退位してからは薬子の後ろに立つ。
そして出家してからは、朝夕拝んでいる厨子の前に座って何も言わず、ただじっ…と自分を見つめているのだ。
わかっている伊予。お前のその眼差し、今は何が言いたいか解るぞ。
お前は私に向かっていつも、
兄上、あなたはこれでいいのですか?
と問いかけていたのであろう。
…なれど、いま抱えているものを自分でもどうしたらよいかわからぬのだ。
堂々巡りの思考に疲れて脇息にもたれる上皇に「徳一和尚がお見えになりました」と舎人が報せに来て上皇の頬にぱあっと血色が差した。
生まれて初めて上皇を心から笑わせ、いちばん心を許している徳一和尚が「我にとって養父同然のお方です」と東大寺の老僧、実忠を連れて来たのだ。
「華厳宗実忠、罷り越しました」
上皇に礼儀を尽くして頭を垂れる老僧の一部の隙も無い身のこなしに
さすがは長年東大寺を支えて来た柱、実忠和尚であるな。といたく感心した上皇が
「お前に会えるのを楽しみにしていたぞ、面を上げよ」と命じるままに顔を上げた老僧は、瑠璃色の目をしていた…。
ほう、と上皇は息を吸い込み、
「なんて深く青い瞳なのだ」
と感嘆のため息を洩らすと
「きょうはこの私の話し相手になってくれぬか?なに、そう畏まるでない」
と僧侶としての大先輩である彼に自分の方から近づいて彼のすぐ前で床座した。
「この老い先短い我が身、上皇さまの御前に召され、恐悦の極み。さて、どこから話せばよいのやら」
と抜けるように白い肌はところどころ皺が寄り、縮れてはいるものの一体何歳なのか解らない実忠はくすん、と小さく笑った。
「思い出しながらでよいではないか、そなたは胡人の末裔と聞いたが」
「は…両親は唐から海を渡って来た宝石を扱う商人で我はこの国の都で生まれました」
と実忠は再び頭を垂れ、長かった人生の記憶が明瞭になってきた順から言葉を紡ぎ出した。
思えば私の人生最初の記憶は、
美しく着飾った唐人の娘が十近くもの球を宙に放って両手で操り、頭に布を巻いた天竺人の男が笛で蛇を操り、胡人の踊り子が胡旋舞を舞う雑事師が行う、都の芝居の光景からです。
あの頃の都は様々な髪と瞳と肌の色の人びとが暮らしていた理想郷のようなところでした。
が…そのような日々は長く続きません。
仏教徒以外の渡来人追放令がお上から出されたのは四才の時。
拝火教は仏教の教えとは相容れないという理由で家族は唐商の船に乗せられ国外追放され、
拝火教の洗礼を受けていなかった私一人だけが良弁和尚に引き取られ弟子となりました。
父親は良弁さまから革袋いっぱいの金を受け取り、私に向かって
「お前をジュド・チフル(よそ者)と名付けて忘れる事にする」
と言って寺から去りました。
振り返りもしなかった父の背中は今でも忘れません。
親に売られた。という事実が辛すぎて自分の元の名前すら忘れてしまいました。
「ジュド・チフルとはどういう意味なのか?」
と泣いている私に良弁さまがお尋ねになられたので
「…よそ者」と答えると良弁さまは一瞬眉をひそめ、
「お前は今よりこの寺の子になったのだから実忠、と名付け直す。それでいいかね?」
うん、うなずくと良弁さまは私の手を引いて寺に迎え入れて下さりました。
金色の髪を剃られ、実忠という名を新たに与えられて寺の見習い小僧となった私は良弁さまに特に目をかけられて育ちましたが、
どうせ見かけと愛想だけの寵僧なのだろう?
と周りに言われないように経典を覚え込み人の何倍もの努力もしました。
良弁さまはなぜ渡来人で異教徒の子である私を弟子になさったのか?
毛色の違う弟子を育てて周りに見せびらかしたかったのか。
忠実に働くしもべとして私の容姿を利用し、貴婦人たちから寄進を巻き上げたかったのか。
良弁さまが世を去ってもう37年。未だに我が師の真意が解りませんが、それでも私を育ててくれた事には感謝しています。
長じた私は白い肌で碧眼の美しい僧侶。として都の貴婦人たちから可愛がられ、同僚たちより多くの寄進を得ることが出来ました。
誤解しないで下さい。
「でも、青い目の子供が出来たらどうするのですか?」
という言葉ひとつで女人たちは私と交わることを恐れたので今まで女犯をせずに済んでおりますよ…
良弁さまが東大寺初代別当となり師に引き立てられるように出世しても、
何度も渡海に失敗し、目から光を失ってでもこの国に戒律を伝えに来てくださった鑑真和上や、
貧しき民を救うために自ら橋や溜池をお作りになられた行基大僧正という心清しい師たちに仕え、
毘盧遮那仏建立という事業に参加しても、
ジュド・チフル。
という名前が呪いのように心にこびりついてしまった私は所詮は僧衣の胡人。
この国の何処に居ても自分はよそ者。という空虚を埋められずにいました。
そんな私を満たしてくれたのは唐より伝わった最新の医術。
施薬院に赴き教えを乞うた私はそこで唯一心を許した女人、和気広虫さまに出会いました。
常に好奇の目と同僚の僧たちからの嫉心にさらされていた私は心疲れると必ず施薬院に赴き、
いきなり来訪した私に広虫さまは姉が弟を迎えるように、
「お勤めご苦労様です。ちょうど風呂(蒸しサウナ)が空いていましてよ」
と病人を癒すための治療施設である風呂に私を入れて下さりました。広虫さまの屈託のなさ、押し付けがましくない優しさにどれだけ救われたか。
広虫さまの弟清麻呂どのには
「…くれぐれも出家の身である姉上には手を出すなよ」と釘を刺されましたがね。ふふっ。
もう昔語りをするのは最期と思われますのでこれだけは白状しときましょう。
私が生涯で本気で愛した女人は二人。
お察しの通りひとりは法均尼こと和気広虫さま。そしてもう一人は…当時の国母、光明皇太后こと光明子さまなのです。
忘れもしません、あれは東大寺大仏開眼供養の夜。
開眼導師の菩提遷那さまがこの国の楽人に伝えた陪臚が繰り返し演奏されるのを、確かに力強い曲だがこうしつこく何度も聞かされると…と思って聞いていた私は
「さる尊いお方がお呼びです」
と背後から宮女に袖を引かれて控えの部屋でご休憩なさっていた光明子さまに引き合わされたのです。
「あなたが宮女たちが噂していた実忠なのですね?」
「はい、皇太后さま」
その時は団扇を少しずらして私の顔をちら、とご覧になられただけで「明日から皇太后宮に来るように」と命じられて私は光明皇后のお抱えの僧になりました。
この国一の女人、と呼ばれる光明子さまのお部屋の調度は家具から絨毯、壁の飾りに至るまで唐の最新流行を取り入れた美しい模様に囲まれていました…
「基皇子を亡くしてからは夫である首さま(聖武太上天皇)との夫婦仲は終わっています」
自分より18も年上の筈なのに艶々とした豊かな黒髪を結い、張りのあるお声でその美しいお方は私を見るなり開口一番そう仰った。
「夫は『いずれは天皇家を喰らうのであろう?』と藤原家の娘である私を恐れているけれど、財力だけは当てにしているいびつな夫婦関係。
即位して女帝になった娘(孝謙天皇)は藤原家の血のほうを濃く継いでしまった独善的な性格で私の話を聞く耳を持ちません…実忠」
「は」
「国が一つ買えるほど仏教にお金をかけたのに、どうしてこんなに虚しいのかしら?」
「僭越ながら皇太后さまは、心の底では仏の言葉を信じておられていないのかと」
床几に腰掛けてうなだれる光明子さまははっとしたお顔で私を見下ろし、
「当たりよ実忠。どの経典を紐解いてみてもどうせ虚言としか思えないの。
まあ慈善政策は成功して朝廷はひとまず落ち着いているけれど…
」と再び肩を落とす様は十の乙女より弱弱しかった。
「ではなぜ、僧である私をお召しに?」
「お前が美しいからよ」
そう仰った光明子さまは団扇で私の顎を持ち上げてしげしげとお見つめになり、
「仏の生き写しのような顔をしたお前の言葉なら信じられる。と思って」
と観音像のようにお美しいお顔に悪戯っぽい笑みを浮かべてわざと明るい声でお答えになられました。
お分かりいただけましたでしょうか。
光明子さまはご実家の藤原家の有り余る財力でいくつもの救済施設をお建てになり、大仏建立に心血を注いでも少しも心救われなかった…
この国で最も孤独で哀れな女人であらせられたのですよ。
皇太后宮に通うようになった私は仏の説話の中から出来るだけ現世にいる事をを忘れる内容のものを選び、
「…とまあ自分の善き行いによって仏による救済が現れます。何もそれは死後に限ったことではありません」
という話を光明子さまはある時は数珠を手に掛けながら、ある時は卓(ベッド)の端に腰掛けて目を閉じてお聞きになられておりました。
「今を生きている間にも仏の救済があるというの?」
「はい、それは旱の時に大雨を降らせるとか四天王に変化して敵の軍勢を追い払うとか大それたものではありません、皇太后さま」
「なあに?」
「一緒に外に出て見ませんか」
私が光明子さまを連れて見せたかったもの。それは、ちょうどお昼の光を浴びて庭園の萩の花が生き生きと花を咲かせている様子でした。
「所詮野の花、と宮人たちが通りすぎる景色の中にある美しさに気付かせて下さるのもみほとけの救済のひとつかと」
まあ…とあの方は小さく驚きの声を上げてしばし萩の花に見つめながら万葉集のある恋の歌を諳じなさったのです。
我妹子に、恋ひつつあらずは、秋萩の、咲きて散りぬる花にあらましを
あなたに恋しないで、あの秋萩のようにただ咲いて散ってしまった方が良かったのに。
生きていても、あなたは私の恋にこたえてはくれないのだから。
これは天武天皇の皇子、弓削皇子が叶わぬ恋の相手、紀皇女を想って詠まれた歌である。と言われている。
「わたしね、
生まれた時から後宮に入ることが決まっていて相問歌を交わすこともないまま首さまと結婚したの。恋もしたことのない男女が一緒になってうまく行くわけがないわよね…
弓削皇子も紀皇女も若くして逝かれたけどわたしは身を焦がすほどの恋をしたこの二人が羨ましい。と娘時代から憧れていたの」
そこでさあっ、と秋風が吹き、萩の花びらが散っておの方のお髪に小雪のように舞い落ちる様子もまた…
仏が我に与えたもうた救済のひとつだ。と思うくらい美しいものでした。
翌年の夏、御病に倒れた光明子さまは枕辺に私をお呼びになり、手を取って
「あの萩の花を覚えていますよ」
と弱々しく微笑まれました。
「心にどんな思いがあろうと…
信じる。という気持ちがなければ人は生きていけない。
それを教えてくれてありがとう、実忠」
と御礼を述べると目を閉じ、何回か深呼吸をなさいましたがその息も止まり浄土に旅立たれました。
天平宝字4年(740年)6月7日、光明皇太后薨去。
あの方の弔いの儀式が一通り終わった後、突然庵を訪れた私を広虫さまは「粥でも炊きましょうか?」と言って迎えてくれました。
私はその一言で自分を支えていたもの。僧としての矜持が背骨を一、二個抜かれたみたいに崩れ、広虫さまに取り縋って生まれて初めて本気で泣きました、
話し疲れた様子の実忠を徳一が気遣い、平城上皇に目配せする。
上皇はひとつうなずき、
「現世に現れる救済の話、深く感じ入った。続きは休んでからにせよ」
と湯と脇息を用意させて実忠に与えると「ありがたいことです」と言って老僧は脇息にもたれかかった…
後記
殺した弟の幻影に苦しむ平城上皇。
奈良仏教の生き字引、実忠の過去。