嵯峨野の月#128 喫茶去
第6章 嵯峨野12
喫茶去
釜の中で湯が沸き始め、
米粒よりは少し大きな泡が湯全体に行きわたるころ合いを見計らって砕いておいた団茶の粉末を入れた途端、
ぱあっと広がった茶の香気が鼻腔をくすぐる。
「うんうん、蒸し暑い時期にはこの香りが無くてはな!」
と徳一はいつもの仏頂面を緩めて珍しく笑顔になり、空海が淹れる茶を両膝を打って楽しみに待つ。
湯が沸き立ち、中の茶葉が開いた瞬間空海はすぐに釜を炉から下ろして台の上に置き、淹れたての茶を柄杓で掬って唐渡りの磁器の小さな椀に注いでから「さあどうぞ」と菓子である瓜の漬物を添えて空海は客である徳一に勧めた。
椀を持ってまずは香りを愉しみ、次に中身に眼を落として茶の琥珀色を愉しんでから一口啜る。
口の中に広がる甘味に徳一は眼を瞠った。
「今度会うときに茶の淹れ方ぐらい覚えとけとは申したが、よくぞ…ここまで」
と今しがた喉を通った甘露の余韻に浸る徳一に空海は一冊のくたびれた書物を差し出した。それは唐の文筆家、陸羽が書き遺した世界初の茶の指南書、茶経。
「茶を淹れるのが下手な自分が何度も何度も読み込んで気付いたのです。
陸羽どのは茶事を極める事によって、そしてわしは密の教えを深めることによって
一つのことにこだわり抜いて生きてきただけの男だったのだ、と。
ならばただ書いてある通りに茶事を行えばよいだけ」
それは捨て子として浜で僧侶に拾われ、読み書きは覚えたものの仏典を学ぶことを拒否したため牛飼いなどの苦役を強いた寺から逃げ出して旅芸人の一座に入り、
面白い戯曲を書く男。
と役人の目に止まり遂には茶聖と呼ばれる文筆家に大成した陸羽と自分との共通点、
生まれ落ちてしまったら所詮、苦しみ続けるだけの現世と心に広がり続けやがて自分を飲み込んでしまいそうになる虚無を、
思い付いた詩文を書くことで忘れ、己が生きてきた証の爪痕として残す事が陸羽どのとわしの…生きる縁だったのかもしれない。
という今の自分の本音を吐露すると二杯目を喫した徳一は器を置き、
「ようやく己の正体と向き合い大悟を得たな」
と口元いっぱいに深い笑みを広げた。
「ありがとうございます」
「これで思い残すことなく東国に戻れる。が…空海よ、お前のことはともかく密教の行く先についてはちと気がかりがあってな」
湯気の向こうの徳一の思案顔に
「それはどういうことで?」
と問うたところで空海は目覚めた。
「大丈夫ですか?阿闍梨」
と自分を覗き込む若い僧は空海の甥の真然。
この二十代半ばの青年は九才の頃、叔父空海を頼って故郷の讃岐を出て奈良の大安寺で行儀見習いを経て都に上り、空海の弟真雅の弟子として出家した何事にも熱心な修業僧でいずれ真言宗を担う次代として期待されている。
枕辺には粥と薬湯の椀が湯気を上げている。
床に手をついて半身起こしてからまずは時間をかけて粥を平らげ、次に薬湯を一口飲んで「苦いなあ」と思わず口走った。
天長八年(831年)五月末。空海は病の床にあった。
勤操亡き後大僧都に任ぜられた空海は翌年の天長五年、まずはこの国初の私立大学である綜芸種智院の開校に着手し、
身分関係なく門戸を開き、儒教、仏教、道教などあらゆる思想と学芸を無料で学ぶことが出来る総合教育機関の実現。
という人生の悲願を果たした。
各地方及び畿内から集って来た庶民の子らはみな健康そうで目に活気があり、
貴族の子弟のように出世のため最低限の教養を身につけなくては。
という焦りはなく未知の学問をただ知りたい、学びたい!という好奇心に満ちている。
このような新入生たちに基礎教養を教える講師に、まずは弟子泰範を指名した。
「苦労人のあんたはんだからこそ出来る務めや。肩の力を抜いて教えればええ」
と言われた泰範は新入生たちを前に、
「儒教、仏教、道教とはなんぞや?
それはあなたたちの親や周りの大人たちがやれ悪いことをするな。だの年寄りを尊べ。だの…
なんや、うっとうしいな。
と思った小言の全てはこの三つの教えが基なんです」
と十の子供にも解りやすい言い方で解説を始めて学生たちの心を掴み、たちまち人気講師となった。
講義をご観覧なさった淳和帝《じゅんなてい》から
「泰範阿闍梨の講義は実に解りやすくて面白い。さすがは空海の高弟であるよ」
とお褒めの言葉を頂いた泰範は「坊さんになってこれ程嬉しいと思った事はありません…」と空海を前に涙した。
さらにその翌年の天長六年(829年)、白雉元年(650年)に役行者が創建した京都の志明院を再興した。
これは自分に修験道を教え、「唐に行って最新の密教を持ち帰ってきて欲しい」と道を示してくれた修験者タツミへの感謝を形にしたものだった。
落成の際、舅タツミの跡を継いで修験者の長になっていた賀茂素軽と再会出来たのも喜ばしい事で、
「今では四人の子と弟子育てに明け暮れております。それと、葛城山に来る孤児が減りました。お上がいい治世をなさっている証なのかもしれません」
とこの年三十五才の素軽は表向きの顔である賀茂の氏長者として貴人の服装で現れ、十九年前に護衛した嵯峨上皇への感謝を空海に伝えた。
「ところでタツミどのの消息は?」
「十年前、『東国に腰を落ち着ける』と文が来たっきりで…そういう方なんですよ、我が舅どのは」
と諦めたようにため息をつく素軽に空海は
「ま、同じ空の下で元気にやっていらっしゃる。と思うしかあらへんな」
と言って慰め、暮色に染まる空を素軽と並んで見上げた。
そして天長七年(830年)、淳和天皇の勅に答え、
人間の心を凡夫(一般人)から最終的な悟りの境地に至るまでの十の段階に分けて整理・解説した『秘密曼荼羅十住心論』十巻を著し、献上した。
このように全く休まず四年間を走り続けた空海は半月前、夕餉を終えると急に鳩尾を締め付ける激痛と共に倒れ、弟子たちによる手厚い看護を受けて養生の日々を送っている。
あれもこれもやらなければ、と逸る気持ちはあってもわしもことしで齢五十八。
もう体力も気力も限界なのかもしれない…
翌月、空海は大僧都を辞して高野山に隠棲する旨を上表したが淳和帝、これを留め置かれた。
「いいのですか?もう何があってもおかしくないお年の阿闍梨の辞職のお願いを却下しても」
と上奏書を整理して一つずつ御椅子の前の台に置くのは淳和帝が特に重用する側近、清原夏野。
「当たり前だ、あと二年で春宮正良への譲位果たして肩の荷を下ろすまで阿闍梨には傍に居てもらわねば。朕は一日たりとて心休まらぬのだ」
では、と夏野は白く秀麗な顔に一瞬、意地悪な笑みをひらめかせて
「本日の上奏書、これで最後になります。先に開くのはどちらからでもよう御座いますよ」
と封がされた二つの文を同時に主の前に捧げた。
二つ同時に?
淳和帝御自ら手に取り、封を開けて中の文面を最初から最後まで読み込んではぁーっ…と深い深いため息をつくと御椅子の背にもたれて脱力した。
「解った、阿闍梨の上奏の高野山に帰るところだけは許す…まったくもう、示し合わせたように親子揃ってやってくれたものだな!」
と兄嵯峨上皇と甥の春宮、正良親王自筆の
「阿闍梨を高野山に帰して一年休ませるよう上奏し奉ります」という嘆願文にはさすがの今上帝も逆らう術は無かった。
その頃、休暇が認められたことを知らない空海は弟子二人だけを連れて比叡山延暦寺に赴き、二代目天台座主である円澄と対面するも円澄は…
師最澄への理趣経貸与を断り、その上後継者の泰範を引き抜いた最も遺恨くすぶる相手にかけたい罵詈雑言が山ほどあった。が、相手は大僧都。
「これはこれは大僧都どのが何の御用で?」
と言ったきりかける言葉が浮かばず黙り込んでしまった。
円澄と両隣に控える若い僧たちの怒りと怨嗟に満ちた視線を空海は風と受け流し、
彼の者らはまだまだ若いなあ、青いなあ。
とも思ったが夢に出た徳一和尚が口になさった「密教の未来のため」にはこの青さこそ必要。
「この空海、恥も立場も宗派も捨てて、お頼み申す」
といきなり両手を付いて額を擦りつけたので円澄はこの後に続く空海の願いを聞き入れる他無かった…
「いきなり敵地同然の比叡山に赴くだなんて相変わらず阿闍梨は思い切ったことをなさるなあ」
春宮正良親王は空海の話をひととおり聞いてから薬研で薬草を砕く作業の手を止めると小皿に取り分けた数種類の粉末を調合し、匙で掬った一服量を椀に入れた湯で溶かすと
「飲むといい、胃の腑のつかえが取れるぞ」
と自ら調合した薬湯を空海に勧めた。
薬湯を啜る空海の苦そうな顔を見て正良は、
「お前が教えてくれた処方だぞ、それに『良薬口に苦しですぞ』と言っては子供の頃散々飲ませて来たじゃないか!」
と言って細面の端正なお顔でしてやったり!とお笑いになられた。生来病弱だった正良は幼い頃から空海を師として薬学を学び、
今では宮中に仕えるどの薬師よりも医薬に詳しく、自分が飲む薬は全て自分で砕いて飲むほどの調剤の腕前である。
調剤の道具を全て片付けさせると正良は女御の藤原順子(藤原冬嗣の娘)との間に生まれた我が子、道康親王《みちやすしんのう》を連れてこさせ、
「お前の甥の智泉阿闍梨の祈祷のお陰で私はこの世に生まれることができ、お前が処方してくれた薬のお陰で今まで生き延び、こうして皇子にも恵まれた。感謝してもし尽くせぬ」
と言って道康を空海の傍に寄せた。
みずらに結ったばかりの髪を揺らし、自分を抱っこする老僧の顔をじっ…と覗き込み、怖がりもせずににこりと笑った道康親王を聡い皇子さまやな、と思いながら空海は道康をしばらく膝の上に抱かせて貰った。
この道康が後の五十五代天皇、文徳帝となる。
花瓶に生けられた紫の菊の花を眺めながら、この離宮にはいち早く秋が来たんやな。と空海は思い、高野山に帰る前日に嵯峨上皇の離宮に挨拶に伺い上皇御自らが淹れた茶を喫し香り、色、味の調和の完璧さに…
「これほど甘い茶を淹れるお方を上皇さまの他に知りませぬ」
と上皇の茶事に本気の賛辞を述べた。
そうか、と上皇は湯気の向こうで面映ゆそうに笑い自分も茶を一口飲んでから、
「しばらく寂しくなるな」とぽつりと言った。
「お前が天台の僧たちに嘆願したことは帝にも春宮にもよく言い聞かせておくから心配するな。高野山でゆっくり休め」
「ありがたきしあわせ」
譲位した弟の治世に極力口を挟まない方針でいたが、空海の体調を気遣って帝に意見してくれた上皇に空海は深々と頭を下げる。
「あくまで独り言だがな」
と言い置いて上皇は秋の草花がさやさやと風に揺れる庭園を眺めながら語り出す。
「若い頃は人と交われば交わるほど活気を貰って勢いづくものだ、と思っていた。
が…年を取って離宮に移り住んでから過剰な人付き合いは人間を疲れさせて生きる力を奪うこともある。
長い付き合いでお前はその類の人間であり、生きるために自ら仏道に入ったのではないか、思うようになってな」
そこで上皇は庭園から目線を戻し、釜の湯が冷めぬ内に二煎目を汲んで客に勧めた。
一煎目より濃く出た茶を味わいながら啜り、器を置いてから空海は「全くその通りでございます」と顔を上げて穏やかに笑った。
「皇子だったころは父やその近臣たちを何事一つ動かすにも鈍重な年寄りと軽蔑し、自分はそうはなるまいと思っていたが、四十過ぎてやっと解る物事もある。年を取るのも悪い事ではないな」
「上皇さまもやっとその境地に辿り着かれましたか」
茶釜を挟んで上皇と空海はぷ…くく…とこらえきれずに肩を揺らして笑い合った。
天長4年(827年)、淳和天皇の命により編纂された勅撰漢詩集の経国集に、「与海公飲茶送帰山一首」という空海との茶事を詠まれた上皇の詩がある。
道俗相分経数年
今秋晤語亦良縁
香茶酌罷日云暮
稽首傷離望雲烟
道俗 相別れて 数年を経る。
今秋 晤語するは亦た良縁。
香茶 酌むを罷めて日これ暮る。
稽首 離を傷み 雲烟を望む。
僧の道を進んだ空海と俗人たる自分、人生の道を分かれて数年が経つ。
そのような二人がこの秋、親しく語り合えるのもまた良き縁というものだろう。
香りの良い茶をくんでは止めて話し、たちまち日は暮れてしまった。
深々と頭を下げて空海との別れを哀しみ、彼が去っていく彼方の雲を眺めていることだ。
この詩の通り上皇は「ほな、また会いましょう」と頭を下げて去っていった空海を見送り、姿が見えなくなっても長いことその場に立ち続けた。
これが天皇と僧侶という身分の垣根を越えて親友であり続けた二人の、最後の茶会だった。
後記
喫茶去は禅語で「ま、茶でも一服」という意味。
空海の人生もあと一話。