嵯峨野の月#56 仲成の狼藉
遣唐19
仲成の狼藉
幾日も続く激しい雨が邸の屋根を打ち付け、まるで石のつぶてが降って来たようだ。と婦人は暗い部屋の中の天井を見上げながら思った。
母の縁者を頼ってここがいちばん安全な場所だから。とさる高貴な御方の邸に逃げ込んでもうどれ位経っただろうか?
夫と子供たちは今頃どうしてるだろうか、あのしつこい男にひどい目に遭わされてはいないだろうか?
と思っただけでずきり、と頭が痛んだので婦人は目をぎゅっとつぶって脇息にもたれたその時である。
婦人を隠すためにの几帳台が前のめりに倒され、侵入者の衣に取りつく邸の家人たちを乱暴に振り払って迫ってきたその男は眉が濃い精悍な顔に卑屈そうな引き攣り笑いを浮かべて、
「やあ、叔母上」
と呼びかけた。
逃げなければ!と婦人は思ったが背後には壁しかなく逃げようにも逃げられない。邸の中の一番奥まった部屋にいたことが、この状況で婦人にとって仇となった。
「どうして藤原式家の頭領どのがこんな下卑た真似をするのです!?」
と言った直後、仲成の平手打ちで婦人の頬がぱあん!と鳴って婦人は壁を背にして倒れた。
「…黙れ」
と仲成は口を塞いで婦人を押し倒し、体の自由を奪った上で酒臭い息を吐きかけて、
「この藤の仲成の求婚を袖にし続けた報いをお前のからだに思い知らせてやる!」
と強引に腰紐を解いて衣服を剥ぎ、周りの家人たちが唖然と見ている中で婦人のからだを意のままにした。
どうして?どうして私がこんな目に?
義理の甥の仲成に組み敷かれ、犯されている間じゅう婦人は混乱した頭で轟音の鳴る天上を見つめ続けた。
「お前の気持ちは分かる…が、早まった真似はするな。志摩麻呂」
と葛野麻呂は雨に打たれて地べたにひざまづく家司(三位以上の貴族家の執事)志摩麻呂に、彼と同様煮えたぎる思いを抑えながらつとめて落ち着いた口調で言った。
葛野麻呂の手の中にはついさっき我が家の家司から取り上げた太刀がある。
出入りの商人が長い布包みを持って裏口から出ようとするのを不審に思って呼び止め、逃げようとしたので駆けて捕まえ、相手が変装した志摩麻呂であったことに…
やはりな。と葛野麻呂は思った。
自分の勘働きにはその都度従っておくべきだ。と50年以上生きてきた経験から葛野麻呂は志摩麻呂の凶行を未然に防ぐことが出来たのである。
なれど…なれど。と志摩麻呂は顔を上げて血涙が出そうなほど赤く血走った目で主を見上げて、
「公衆の面前で我が妹が辱められたのですぞ…妹も私もこれ以上生きていられませんっ!かくなる上は」
と呻吟しながら己が心情を吐露する志摩麻呂に葛野麻呂はこれ以上言うのは止せ、と手で制した。
「この太刀で仲成を殺して自分も死のうとでも?無駄だ、相手は式家の頭領。護衛の者たちに阻まれて斬られ、無駄死にする」
「ではどうすればいいのですかっ!このまま泣き寝入りしろとでも!?」
志摩麻呂は拳でぬかるんだ地面を殴り、もう片方の手で濡れた地面に深く爪痕を刻み付ける。
「仲成に侮辱され、あるいは凌辱されて声もあげられず、泣き寝入りしている貴人やその娘たちは大勢いる。それは何故か?彼奴は今上帝の寵臣だからさ。
しかしお前の妹の事件はよりによって帝の弟御の佐味親王さまの邸で起こった。仲成はとうとう皇族までも嘲弄する愚を犯した…私も仲成を処分するよう帝にご意見申し上げるつもりだ」
雨は、勢いを止めず庭園に降り続いている。
「僭越ながら申し上げますが…我が殿よ、処されたとしてもどうせ藤原家の貴族。官位が下がるか地方に左遷されるだけなのでしょう?
私は、仇の死以外のものは望みませぬ」
そう決然と言い放った志摩麻呂の前で我が主人が信じられない行動を起こした。
葛野麻呂は裸足のまま縁側から庭に降り…衣服が泥水で汚れるのも構わずに志摩麻呂の前でひざまずいて、彼の両肩を掴んで強く抱きしめたのである。
「お前は私の乳兄弟(乳母の子)で、幼い頃から私に仕えてきた。同じ乳を吸って育ってきた縁は実の兄弟よりも、深い。お前の妹、志岐子も私の妹同然だ」
藤原北家の貴いご身分の主に兄弟以上だ。と言われて志摩麻呂は感激のあまりその時だけ仲成への憎悪を忘れて葛野麻呂にしがみついて嗚咽した。
「なあ、志摩麻呂。明日よりお前の仇を詮議にかけるがもしあの坊やが王としての義務より私情を優先させたらこの葛野麻呂、あの増長者仲成に犯した所業以上の仕打ちにかけてやる。これは二人だけの約束だ」
この主従の雨の中での約束を、4年後に酷をきわめた仕打ちとして葛野麻呂は実現するのである。
藤原仲成を三月の謹慎処分とする。
というとんほとんどお咎めなし、の帝の裁断を聞いた時、朝議の場に居た公卿たちはほぼ全員我が耳を疑った。
中でも中納言、藤原乙叡は、
「馬鹿な、仲成が犯した悪行は数えてもきりが無いのに…特に佐味親王さま、仲成に殴られ怪我を負わされたのですぞ。最低でも遠流にすべし!」
と真っ向から抗議の声を上げた。
日頃柔和で上品な乙叡が帝に抗議するとは…。見かけによらず勇気のある奴よ、よくぞ我々の気持ちを代弁してくれた!と周りの公卿たちは口々に「そうである」
我も同じ意見です」乙叡に同調して「帝、お考え直しを」と帝の向かってうやうやしく笏を掲げた。
32才の年若い平城帝は、年齢も政治経験も遥かに豊富な公卿たちに無言の圧力をかけられ、御椅子の背もたれに我が身を押しつけた。
無理もない。公卿たちのほとんどは直接間接にあの式家の増長者、仲成の無礼な仕打ちに遭っていたのだ。
…何だと?皆が皆、朕の決定に反対だと言うのか!
平城帝は縋るように味方だと思っている藤原緒嗣と、藤原葛野麻呂を見た。緒嗣は黙って首を振り、葛野麻呂は口調は落ち着いているが、主を責めるような強い眼光で「公平なご裁断賜りたく存じます」と言うのみ。
この朝議の場で沈黙がどれくらい続いただろうか…
それを破ったのは常に帝の横、という自分の立ち位置を踏み越えて兄である平城帝に正対した中務卿、伊予親王であった。
「帝、貴方はご自分でも無理な裁断をなさっていると解っている筈。公の意見よりも私情を優先なさるか?」
「控えよ、伊予」
「いいえ、皆が思っていることをこの場で言わせていただきまする。仲成を正当に処罰したら連座して妹である尚侍薬子を追放しなければなりません。それが出来ないから兄上は何も判断できないのだ
…さあ!佞臣奸婦ともども宮中から追い払って後顧の憂いを無くすのが今の兄上がやべきことではないのですか!?」
太い眉をぐっと引き上げて伊予親王10近くも年上の兄帝に迫った。それに対して平城帝は飼っていた小動物に噛みつかれたような不快な気持ちで弟を睨み付ける。
二人の衝突を参議たちは黙って見守り、外で振り続ける雨音が滝のように響いて聞こえた…と後に沈痛な気持ちでこの出来事を思い出すのであった。
それから三月が経った。
「智泉、あのご婦人に瓜を切って差しあげてくれ」
と師の勤操に用事を頼まれた大安寺の見習い僧、智泉ははい、と素直にうなずいてから厨で瓜を切って器に並べ、奥の間にいる客に「どうぞ」と差し出すと、客人である女性は「ありがとうございます」と智泉に合掌してから器の瓜を白い指でつまんでかりり、と上品に食んだ。
きっとこの御方は高貴な身分の婦人なんだろうな…と部屋を後にして婦人の美しさを思い出してついうっとりしてしまう自分を、おい智泉、何を考えている?自分は僧侶になる身なんだぞ!と裏の井戸で冷水を被り、女人に対する渇望を抑える智泉はこの年17になり、叔父の空海の帰国を待つ身であった。
ここは平城京の寺社から少し離れた勤操の庵。
「わしの秘密の隠れ家じゃ」
と師はにやりと笑うだけで庵に来る客人の事情は自分の内に秘めて弟子である智泉にも話さない。
だが、月に1、2度師に連れられて客人のお世話をしている内にここが、訳ありの女人たちの駆け込み場所である。ということがうすうす解って来た。
勤操和尚は、離れの庵に女人を囲っている破戒僧だ。
と口さがない噂をする僧侶たちもいるが、本当は違う。女人たちは勤操の優しさと口の堅さに縋ってこの庵に集まるのだ。
ある時、ふと閉め切った部屋の格子戸から中を覗くと、年端も行かぬ娘の体はがりがりに痩せて落ち窪んだ眼をしているのにお腹だけは異様に膨らんでいるのを見た事があり、またある時はほああ…ああ…と赤子の泣く声が奥の部屋から聞こえた時もある。
この庵の正体は、犯されて孕んだ娘たちが子を産み落とす場所で、勤操はお産の手助けをする僧侶なのだ。
口が裂けても言えぬ事情を抱えた娘たちは子を産み体力が回復すると「何事も無かった」ように実家に戻り、産み落とされた赤ん坊は勤操のつてで里子に出される。
勤操はじめ庵に勤める僧侶も、智泉も、ここを訪れるもの全てが決して肝心なことを口に出して言わない。
最上の喜びであるはずの子を孕むという事が、女人の事情によっては死にたいほどの苦しみで、恥辱である。と世の中には決して光を当ててはいけない場所もあるのだ。と世の中の光と陰が分かりかけている智泉、17才の夏。
「孕んでいなかった、という事が不幸中の幸いや」
と婦人の診察をした勤操がそう告げると婦人に相談されてこの庵に連れてきた僧、徳一はあからさまに愁眉を見開いた。ま、瓜でも食めや。と勤操が切った瓜を受け取ると謹厳実直な徳一にしては珍しく子供のように瓜にかじりついて甘い汁を啜って「うまい」と呟いた。
「あんさん余程緊張で喉が渇いとったんやな。お役目ご苦労」と徳一を労った勤操は急に顔から表情を消して、
「藤原仲成…あの狂犬が都に帰って来てまたやらかしやがったか。地方で朽ち果てて死ぬれば良かったものの」
と唾でも吐きかけたそうな顔で呟いた。
「また…とは拙僧はよくは知らぬが仲成は以前にもこのような狼藉を?」
ああ、と勤操はひとつうなずいてから
「式家種継の長男であるのをかさにきて、前の都では盗む、犯す、殺すとやりたい放題やった。先帝もこれを看過できず地方赴任ばかり繰り返させて決して宮中にはお近づけにならなかったんや。
不幸なことに今上帝は仲成の過去を知らずに宮中に呼び寄せてしまった…耳に入る噂だと行状は前より酷くなっているな。
皇族のお邸で妻の叔母を凌辱するなぞ前代未聞や!帝も死を賜るか遠くの離れ小島に終生込めておくべきだったのだ!」
よりによって相手に死を望む、なぞ僧侶にあるまじき発言をする先輩僧に徳一は戸惑った。
「ちょっと、勤操和尚…」
「20年前の事や」
「え?」
「ちょうど20年前のことやった。ある貴族の娘が犯されて孕まされてこの庵に来た。わしもここで仕事するようになって日が浅かったし、寺育ちで女性の心の機微に疎い坊主やったからあの忌まわしいことが起こったんや。
大きくなる腹を撫でながら娘は聞いた。『生まれたのが男か女かで行く先は決まるのでしょうか?』と。わしは迂闊にも『男子なら寺で育てますが、女子は里子に出します。女子はなかなか貰われにくいですが』と馬鹿正直に答えてしまった…果たして、生まれたのは女の赤ん坊やった。
娘は赤子が泣くと黙らせるために乳をやっていた。しかし出産10日目に泣き声が聞こえないのでもしや、と思い部屋に入った」
「そこで、何を見たのです?」
徳一は、話す内にだんだん顔色を悪くしている勤操に息を呑み、聞いた。
「ちょうど娘が赤ん坊の顔に寝具を押しつけて、息を止めているところやった…
わしは赤ん坊を取り上げたが間に合わへんやった。『こんなものさえなければ、最初から私には何も起こらなかったことになる』と娘は薄く笑っていた。
体が回復したら娘は何事も無かったように家に帰り、何処かの貴族と結婚したと聞く…」
この庵で嬰児殺しの生き地獄が行われていたとは。徳一はこみ上げる吐き気を抑えてながら、
「勤操和尚、あなたの言わんとすることこの徳一、分かってしまいましたぞ。その可哀想な赤子の父親は」
とそこで言葉を切った徳一に向かって勤操は
「そう、藤原仲成。あやつは自ら名乗って娘を襲ったのだ」
と言っていつの間にか外で鳴くひぐらしの声に顔を向けながら答えた。
この虫の音を聞くと夏も終わり秋が近づいている証だが、二人の僧侶の心の中は同じ思いで燃え盛っていた。
仲成、許すまじ。
後記
薬子の兄、藤原仲成が起こしたこの暴行事件、史実です。
いいところで報告に来るタイミングの悪い葛野麻呂の執事の名が志摩麻呂明かされる回。