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嵯峨野の月#130 流人篁

わたの原 八十島やそしまかけて ぎ出でぬと
人には告げよ 海人あまの釣り舟

広い海をたくさんの島々を目指して漕ぎ出して行ったよ。

と都にいる人々には告げてくれ、漁師の釣り船よ。

地上からの光と海の色が溶け合う深い青の中で上半身裸の娘が色とりどりの海藻をかき分けて泳いでいく。

揺らめく視界の中岩礁に転がる獲物を見つけてすかさず片手でそれを掴むと一気に反転し、しなやかな肢体をくねらせながら光のある方に向かって両脚の裏で海水を蹴り続ける。

やがて獲物を握った右手、次に顔、と海面から突き出すと娘は限界まで鼻から息を吸い、口をすぼめて吐き出す時にぴゅー!と音が出る磯笛いそぶえを鳴らし手に握ったあわびを桶に入れた所で視点を変え、浜で自分を待っている男の影にやっと気づいた。

阿古那あこなぁー!」

伸びた髪を肩の辺りで結わえ、褪せた直衣姿のうしすがたの背の高い男に呼ばれてことし十七の海女あま、阿古那は笑顔になって手を振り返し、真珠のようにきらめく白い歯を見せて笑った。

桶を抱えて陸に上がると海士小屋あまごやと呼ばれる休憩室で囲炉裏の火を男が焚いてくれている。

交替でいるはずの先輩の海女たちが居ない。

男が来たので周りがすぐに気を利かせてくれたのだと気付いて阿古那は顔を赤くする。

「早う温もれ、風邪ひくぞ」

阿古那が白衣を身に着け、海水で冷えた体を温める横で男は勝手に桶から取り出した貝の口を黒曜石の小刀でこじ開け、焚火に敷いた網の上に次々と並べていく。

この人がこうやって磯焼きを作る手つきも随分慣れてきた。熱で貝の身が縮み、汁が溢れて食べごろになる過程をまじまじと見つめる目つきはまるでわらわみたいに輝いている。

この半年でこの人は本当に変わった。と傍で見ていて阿古那は思う。

というよりこれが本来のこの人の姿なのだろう。島に来た時は死人のような眼をしていたのに…

男に勧められるまま焼きたての貝と飯を食べ、酒を一口二口飲むと酔いでぱあっと頬が染まる。

「日に焼けているのに酔いが一目で解るぞ、お前はまだまだ子供だな」

と宴の時きまって兄たちにからかわれるのにこの人だけは「無理して付き合わなくてもいいんだぞ」笑って許してくれる。

腹が満ち足りて酔いが回ると男は実に自然な仕草で阿古那の肩に触れる。それを合図に阿古那も男の首に手を回し、火の消えた暖炉の横で二人は重なり合って倒れた。

承和6年(839年)夏、隠岐の中島(島根県隠岐郡海士町)。

この年三十七才の小野篁は遣唐副使の任務放棄と朝廷を誹謗中傷した罪で官位を剥奪され、その上で隠岐島に遠流。

と嵯峨上皇の在位中に死刑が廃止されていたこの時代の、最も重い処罰を受けての流人生活も半年が過ぎていた。

普通の貴人なら一日も早く中央復帰を願って粛々と謹慎するものなのだが…

着いて三日目で籠もるのに飽きた篁はふらり、と外に出て島民と語らって酒盛りし、

浜から上がる姿を見染めた阿古那と恋仲になって七日に一度は逢いに行き、思いついた詩を急に口に出して歌い出し、これはいいと思ったら紙に書きつける、自由気ままな流人生活を送っていた。

「都から最も遠く離れた隠岐に流され生きて帰れる望みはほとんどない。いっそこのまま出家して島に寺でも建てようかなあ」

と情事の後の睦言で篁は割と本気で言ったのだが、

「会いに来る度にあたしの獲物を全部平らげて、その上まであたしまで食っちまう殿さまがちゃんとした坊さんになれるもんかね」

とからかうように胸を指でつんつんつつかれ、篁は笑って頬を掻いた…

夜、隠岐島の漁の頭である二十才年上の兄に阿古那がそのことを話すと兄は神妙な面持ちで、

「実は、島後の寺の坊さんから『篁さまに仏像を彫って欲しい』と依頼の文が来ててな。これも何かの縁かもしれん」

と隠岐四島東部の島、島後に篁の身柄を移すこと、身の回りの世話役として阿古那も付いていくことをあっさり快諾した。

五日後に島後に移った篁は横尾山の光山寺に籠もり、早速仏像制作に取り掛かった。

鑿と鎚を振るって樹皮を剥いだ丸太の上に炭で仏の絵を描きいて余分なところを削ぎ落とし、炭が消えそうになったらまた描いては削ぎを繰り返す。簡単なようでいてなかなか難しい作業に篁は夢中になり、いちいち阿古那が呼ばないと寝食を忘れるほどに没頭していった。

時には気晴らしに山を降りて住職の案内で野生の蘭や石斛せきこくなど探しに行ったりを裏山の滝に打たれて滝行の真似事をしてみたり、日の本本土から離れた隠岐の自然の中で篁の心身は徐々に癒やされていった。

ある夜、やっと人の形だと判別出来るくらい仕上がった小さな丸っこい像の前で済まない…済まないと言いながら床に突っ伏している篁を心配して彼の震える背に阿古那が手を触れると上体を起こし袖で涙を拭った篁は、

「やっと話せる心持ちになった」

と顔を上げ、自分が隠岐まで流されるに至った経緯を少しずつ語り出した。

海を渡って唐へ行き、帰れば星の位。と一番の出世の近道と言われていたのは既に三十年も前の昔。

皇太子恒貞親王の教育係である東宮学士を務めていた篁が遣唐副使に任ぜられたのは承和元年(834年)の事であった。

が…遣唐使たちを待っていたのは二度に渡る渡航の失敗。

四つの船からなる船団の内一隻は嵐で行方不明になりもう一隻は大破して残った木切れを筏代わりにして漂着した島民に助けられるものの真言僧、真然と真済と数人の水夫以外全員が飢えと病で死亡。

「真言僧のあのお二人は元々鍛え方が違うのか、はたまた亡きお師匠空海阿闍梨の加護に恵まれていたのか解らぬが、この渡航の失敗で犠牲になった者の数…

実に百人余り」

もう、何のために命懸けで海を渡るのだろう?

口には出さないまでも皆疲れ切って修理が万全でない船に乗るのを嫌がっていた。

そして、遣唐大使の藤原常嗣はじめ一の船の留学生たちが皆乗船した時、重みで床板を踏み抜いて船室が漏水するという事故が起こった。

足首まで海水に浸かり、慌てて船から脱出した常嗣は咄嗟に、

「副使の二の船団と船を交換して出発する」

という短慮極まりない判断をし、篁に船を譲れと言うではないか。

その時、篁はすうっと目を細めて…

「あーあー、大使どのは逃げてきた船に私達を押し込めて死なせるつもりなのですね!?がっかりです。

己の利得のために他人に損害を押し付けるような道理に逆らった方法が罷り通るなら、面目なくて部下を率いることなど到底できません」

と急に腹痛が来たので重い病かもしれない。とか老いた母が心配だ、などの思いつきの言い訳を並べ立てて乗船を断固拒否した。

そして篁は乗船拒否の罪人として捕らえられ、都に護送されるまでの道中、遣唐使制度そのものの存在意義を問う内容の漢詩「西道謡」を繰り返し大声で謡い続けた。

詮議の場で嵯峨上皇のお顔を拝した時…

「私をお裁きになるのは今上の帝ではなくお父上のあなたですか?
つくづく過保護なお父上ですね!」

という言葉を皮切りに肚の底に溜め
込んでいた感情を忌み言葉として次々と吐き出した。

それはまるで自分の体に眠っていた渦巻く怒りが赤い龍となって口から飛び出した。
そんな感じだった。

篁の讒言を眉一つ動かさず受け止めた嵯峨上皇は彼の目の前まで降りて来てから、

「それが、お前の言いたい事の全てか?」

と怒りと悲しみが混ざったような眼差しで篁が書きつけた西道謡の紙を勢いよく真っ二つに引き裂いた。それを何度も繰り返し、ついには全ての文字も読めない程細かく裂かれた紙片をぱら、ぱら、と浴びせてから、

「全ての官位を取り上げ隠岐に遠流とする」と宣言なさった。

「これが私がここまで流されてきた経緯だ」

と話し終えた篁はほうっ、と一息をつくと…

「今までそっとしておいてくれてありがとう」

と阿古那の両肩に手を置き、彼女の胸に顔を埋めてすすり泣いた。

人間、本当に辛いことは忘れる位長い時が経つか心癒された時でないと自分から話さない。

篁さまがやったことの無い仏像彫りを引き受け、己の全てをかけて打ち込んでいらっしゃるのはきっと、無理な渡海で死んだ者たちの慰霊のためであろう。

理不尽な政の圧力に押しつぶされて深すぎる傷を負った愛する男を、抱きしめて慰める事しかできない阿古那であった。


その頃、都の外れの邸の一室では床に広がるほど長い垂髪に単衣を重ね着した女人が寝所に文机を置いて筆を取り、流れるような筆致で漢詩を書いている。

痩せてはいるが色白のその顔はすらりと伸びた鼻梁に形の良い唇、睫毛の長い一重まぶたの気品ある顔立ちをした彼女の名は有智子内親王うちこないしんのう


彼女は七年前の天長八年、病のため二十二年間務めた賀茂斎院を退下し今は嵯峨離宮に近い西の院で療養生活を送っていた。

「有智子様、あのう…」
と母の交野女王が病室に入ってきて帳帖ごしに困った顔を見せる。

「また、なのですね?お母様」

有智子ははあーっ、と大仰にため息を吐き、慌てて女房たちを呼んで部屋中に散らばった漢詩の書き付けを片付けさせる。この頃三日と空けずにお見舞いに来る父、嵯峨上皇に有智子は辟易していた。

「いくら家族がお相手してくれないからって寂しさ紛れに病人のもとに通うなんて縁起がよろしくないですわよ」

見舞いに来た父上皇の顔を見るなり有智子は言葉で先制の一撃を食らわせ、篁を流罪に処した件で息子である仁明帝からは、

「本来なら朕が詮議するところを『わざわざ』飛び越して全て処理してしまわれるなんて…どこまで朕を子ども扱いなさるおつもりですか!?」

ときつく叱られ、

妻の皇太后、橘嘉智子にもここ数か月

「最近年を取って気の利いた事を言えず失礼をしてしまいそうで」

とお付きの宮女明鏡を通して会うのを断られる始末。

ほかの寵姫たちに会ってもどこか態度が空々しく…事実上天皇家の家長でありながら我が家に居ても誰もまともに相手してくれない、という辛い目に遭っているのである。

「あの忍耐強いきつ大后おおきさいさまがお怒りになるのは相当な事です。甥を島流しにした夫の顔をまともに見られないのは当然かと」

篁は嘉智子の姉、安子の娘婿で嘉智子にとって篁は義理の甥にあたる。

「つまりお父様は家族の誰も相手にしてもらえない、と。これからとても寒い冬をお過ごしになるのね」

ほほほほ!と口に手を当てて高笑いした後有智子は居住まいを正して父親を見据え、

「造船技術の遅れ。
遣唐使事業に費用を回せなかった財政の甘さ。
あまたの死者を出した失策。

そして外戚の北家に忖度してか篁どのの文才に嫉妬してか知らないけど…いい加減今までの政の綻びを全て認めて、なさるべき事をなさってはどうですか?」

愛娘に本心を衝かれた嵯峨上皇は詮議の折、

縄打たれたままの篁があちこちの方向に向けて政道批判を繰り返し叫んだ場面を思い出す。

これを書いた我が身にも障りがあるのではないか?と書紀係自らが筆を止めるほどの忌みことばを口角慌てて飛ばしてわざとまき散らし、発言を証拠に残さない計算高さ。

ここに来るまでの道中、庶民にも解る言葉で謡《うたい》にして遣唐使制度の不備を世間に知らしめた行動力。

そして、道中書いたという

非常に優美で深遠な七言十韻の漢詩、謫行吟たつこうぎん

有智子の言うとおりだ。

私は小野篁に文才でもまつりごとの才でも、敗けて悔しかったから篁を流罪にしたのだ。

「その通りだよ、死刑制度が無いのをいいことに言いたい放題した篁には腹を立てているが、

あの子は私が取り立てて育てた文人たちの中でも最高傑作だ。

現に篁不在で官吏たちの書類の不備が目立ち、政が滞っている」

今だ。きらりと目を光らせた有智子は、

「以前お伝えした放たれし荒神。篁は天つ神の過ちを正すために生まれた猿田彦大神の化身なのです」

と間髪入れず自分の清庭さにわの能力で視たものを告げた。

はは…やっぱりそうか…と額を抑えて苦笑した上皇は、

「あい分かった、篁の罪を赦して宮中に復帰させる」

と決定的な宣言をした。

「これでお父様も自宅で暖を取れますわねえ」

と有智子は言ったが本当は賀茂社から退下する際、輿を警護していた武官の青年に巨大な角を生やした鹿のような荒神の影を視た事は黙っていた。

今言うべき事ではないし、あの目の青い武官が日の本に影響を起こす時には、お父様も自分もこの世にいないのだから。

翌承和七年二月十四日(840年3月21日)

小野篁放免。

伸び放題だった髪を整えて帽子もうすを被り、迎えの船の者から渡された新しい衣に身を包んだ篁の意気揚々とした姿に島の者たちはたった一年七ヶ月で中央に呼び戻されるなんて、このお方はやはり只者ではなかった。

と短い期間ながら篁と触れ合えた日々を誇りに思い島民総出で港から送り出した。

船に乗る直前、着飾った阿古那を抱き寄せ、

「罪が解けたばかりの身だからお前を連れて行く事が出来ない、許してくれ」

と涙を浮かべながら侘び、別れを惜しむ二人の姿は周囲の涙を誘った。が、

その耳元に阿古那が何か耳打ちをする。

「そうか、そうだったのか!」

急に篁の表情が輝き、一瞬強く阿古那を抱きしめると彼女の長兄と頷き合ってから船に乗り込み、笑顔で手を振りながら隠岐の人々に別れを告げた。

遠ざかっていく船影を見つめながら阿古那は自分のお腹にそっと手をやり、

「あたしはもう一人じゃないから大丈夫」

とはっきり告げた。

七ヶ月後に彼女が産んだ男児は隠岐の一族に育てられ、身の丈六尺近くの美丈夫な漁師となった。


後記
最後の遣唐使、4部作。第一話は流刑先の篁が内に抱えた悔しさ。

お地蔵さんの元ネタは流刑先の隠岐で篁が彫った像という説もある。















































































































































































































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