嵯峨野の月#90高野の民
第4章 秘密7
高野の民
昔、まだ何者でもない青年が深い霧の中に佇んでいた。
自分の鼻の一寸先まで湿りを含んだ微小な水の粒に包まれ、
辺りの草木も足元の道も全く見えない状況に普通の旅人なら恐怖で来た道を引き返すか焦りで出鱈目に前に突き進んで遭難するか。だがこの青年は、
なるほど、雲の中に居るとはまさしくこういうことか…
と麓の集落から頂上を雲に覆われたこの山を見上げた時に、
あの雲の上にある世界がどんなところか見てみたい!
という不意に沸き上がった熱情から登山を決行し、白衣のように己が身を纏う濃霧の中で、
雲の正体とはこうして近づいてみれば霧だったのか!
ここまで登って来た甲斐があったな…とひとつのことを理解した満足感に包まれた。
青年は自分の顔かたちも解らぬ真っ白な世界でそれからどうしたか、というと
山を這うて山の理を知れ。
という山岳修行の師である僧侶の言葉の通り四つん這いになって目を閉じ、手で直に山肌に触れて草木がない、と感じた処を分け入って進むこと半時。
まぶたの奥に光を感じ、目を開けるといつの間にか霧の幕を抜けていた。
不意に、左右の草むらから白と黒の犬が飛び出して来て青年に取りつくも彼らは尻尾を振りながら衣の裾に噛みつき青年をさらに山の上の方に引っ張るではないか。
「こらこら!やけに人懐こい犬やな」
青年が笑いながら明らかに人に飼い慣らされた番犬たちのされるがままに奥へ進むとなだらかな山道が広がった。
だ、だれ…?と木の陰から出てきたのは年の頃7、8才位の金髪碧眼の童。
警戒で身構えながらも番犬たちに懐かれているよそ者を初めて見た珍しさにこわごわ声を掛けて来た。
「わしは佐伯真魚。童、名は?」
「ムラート」と童は答えた。
「お兄さんどうやってここまで来れたの?凄いね!」
「この犬ころたちに引っ張られたんや」
と答え、それだけで気を許してくれたムラートの案内が無ければ真魚は彼が住む隠れ里まで辿り着けなかっただろう。
さらに倒木の下をくぐり、分岐した山道を左、右、左へと進むと急に視界が開け、木を組み立てて拵えた小屋が10いくつと、その奥から煙が上り立つ人里が現れた。
里の何処を見ても光が降り注いでいるのでもうここが山の頂上で、今は昼近いのだな。と
朝から山を登り始めた真魚は思った。
ぼさぼさの蓬髪に褪せた柿色の僧衣を纏った異様な風体のよそ者の来訪に
何事か!?と思い集まって来た里の男たちの半数以上が金髪碧眼の渡来人で皆、警戒の目で真魚を見ている…
その中からムラートは祖父の姿を見つけ、真魚と引き合わせた。
「わしはここの里の長で田辺老人。若いの、結界を越えてよくこの里まで来れたね」
と高齢だが矍鑠とした日に灼けた肌の老人が晴れた日の空のような青い瞳を細めて笑い、訝る里の者たちに
「まあアグニとルドラが懐いたのだから悪人ではないよ」
と真魚を客人として遇する事を許可した。
アグニとルドラとは先程の番犬の名前だろう。アグニとルドラは天竺の言葉で炎神と風神という意味なのだと数年後、唐で梵語を学んでいる時に真魚は知った。
「そうだよねえ…よそ者が来たら死なない程度に噛みつきまくる犬たちなんだもの」
と里の女が話すのを聞いて初めて、あいつらそんなに獰猛な番犬だったんかいな!?
と真魚は肝を冷やした。
「田辺どの、ここは何と言いますか?」
真魚の問いに田辺老人はちょうど正午の陽が降り注ぎ、光満ち溢れる里を見渡してから、
「高野山」と答えた。
延暦17年(898年)夏、
若き日の空海である佐伯真魚と、後に彼が唐土より持ち帰る密教の根本道場になる高野山との出会いだった。
それから13年後の弘仁2年初夏。
高野山の登り口には誰がいつ建てたかも解らない小さな祠があった。
そこに祀られているのは
丹生都比売
と山道の脇の石に彫られた文字から辛うじて判別出来る。どうやら古来よりこの地の山神らしい。
「丹生都比売さまは俺たち高野の民にうまい水と丹という山の恵みを与えてくれている。っておばあ様から言われて育ったんだ」
と成長したムラートこと田辺牟良人が祠に真っ先に手を合わせ、空海、騒速、素軽もそれに倣って頂上までの旅の安全を祈願した。
ここからは頂上までは急な山道が続くので、四人は休憩を取りながら焦らず進んだ。途中の沢の水を竹の水筒で掬って飲むとえもいわれぬ甘みが口中に広がり、
「う…美味い!」と吉野の山で育った少年二人は思わず唸ってしまった。
「今まで吉野の水がいちばん美味いって思ってたけど考えを改めなきゃなあ…」
「そんなこと言うが、故郷に帰ったら帰ったで『やっぱり吉野の水が一番だったな』って言うに決まってるさ!賭けてもいいぜ」
「そんなこと言っていいの?兄者は賭けるもの何も持ってないくせに」
と騒速に言われて一瞬むっとしたが本当の事なので何も言い返せず黙って握り飯を食う素軽であった。
少年二人のじゃれ合いのような会話を前に
若いってええなあ。
と自分が彼らの年の頃には猛勉強して大学寮に入り、学友たちと勉学と議論に明け暮れた寄宿生活を送っていた頃を懐かしんだ。
間もなく長岡京を襲った疫病と水害と、杜撰すぎる役人たちの対応と全てを祟りのせいと目に見えないものに押しつけて思考停止してしまう人々の魂の抜けた眼。
学生真魚はその全てに拒否反応を示して都を棄て、世間を棄てて山野をさすらう私度僧になったのだ。
10年後に降って湧いたような唐留学への推薦と受戒、困難を極めた旅の行程と何もかもが目新しかった長安での生活。
そして恵果阿闍梨との出会いで我は図らずも密教の正統後継者となって帰国し、嵯峨帝に引き立てられ、
焼失した八咫鏡の新造。
という密命を果たすために再び高野山に入るだなんて思いもよらなかった。
「残念ながらじいさんは2年前に逝ったけど工房は兄上が跡を継いで職人たちも健在だ。この鏡と同じどころかもっといいものが作れると思うよ」
内裏のご神鏡に彫られた唐草模様を頼りに職人の所在を訪ね回り、九条の街で再会したムラートにそう言われて空海は飛び上がりたくなる程喜んだのだが…
「でも、俺は二度と故郷の高野山には帰りたくないんだ。帰ったら妹と結婚させられてしまう!」
と胡人の拝火教徒の子に生まれた彼なりの苦悩があって、都まで逃げて来た経緯を打ち明けてくれた。
父親と娘が、兄と妹が結婚して子を生み一族の血を繋ぐという最近親婚という慣習が古からの拝火教徒にはあり、
ムラート自身も兄妹婚をした両親から生まれている。
「両親とも拝火教徒じゃなければ拝火教徒にはなれない。このままじゃ一族も教えも滅びてしまうからって言われても…
一緒に育って来た妹をいきなり娶るなんて、俺には出来ないよ」
工芸品と食糧を物々交換するために定期的に山を下り、麓の天野の里の人々と親しんできた牟良人には、
もしかして、自分の家族のあり方はかなり特殊なのではないか?
という疑問が幼い頃からあり、昨年の秋に妹と結婚するよう命じられた時…
里から逃げよう、と牟良人は決意したった一人で彫金の道具箱を背負って夜が明けぬ内に山を降りた。
麓に住む秦一族から
「これはお前の腕を見込んでの投資だ。目の高い貴人に気に入られて何倍にでもして恩を返せよ」
と言われて路銀を借りてなんとか都まで辿り着き、九条で住処を得て暮らしていけるようになった頃突如、空海阿闍梨となった真魚に押しかけられたのだ。
伊勢で密命の内容を聞かされた時はあまりの事の重大さに…
高野の民にそのような大役が果たせるだろうか?
と畏れと不安で最初は苦悩したが、もう前に進むしかない。と若さゆえにすぐに気持ちを切り替え故郷への案内役を引き受けた。
「ここから結界に入るよ」
と言って牟良人は自分の腰に垂らした縄を空海、素軽、騒速の順に手に握らせて文字通り数珠つなぎになりながら彼にしか解らない山道を通り濃霧の中をくぐり抜ける。
半時以上登って視界が開けた場所にはもう一つの「結界」がぐるるるる…といううなり声を上げて侵入者を睨み据えて口元からよだれを垂らしていた。
間違いない、これは犬の臭いだ。数にして15、6頭の犬が自分たちを取り囲んでいる!
気配と臭いで状況を把握した騒速は腰に指した蕨手刀の柄に手を掛け、素軽は両腕に素早く革紐を巻いて戦闘態勢に入った。
「人に訓練された犬の群れほど恐い生き物は無い。出くわしたらとっとと逃げることだな」
と修験者の頭のタツミでもそう言って山中では決して戦わないよう言われていた相手に今囲まれているのだ…
「ねえ、牟良人さん。アグニとルドラの数がちと多すぎやしないかい?」
少し怒った声で騒速が案内人の背中に呼びかけると、
「番犬が2頭だけって誰も言うてへんがな」
とからかうように空海が答えた。牟良人が懐から金属製の細い筒を取り出してくわえると
最初にぴーっ!と鋭く一回、次にぴぴぴぴぴっ!
と断続的に犬の群れの頭が仲間を呼び寄せる吠え声を真似た吹き方をした。
その音を合図にさっきまで警戒して身を隠していた犬たちが尻尾を振って茂みから現れ、牟良人の足元にじゃれついた。その数15頭。
「よーしよしよし、俺を覚えていてくれたか!」
と予め千切っておいた干し肉を犬達に与えて愛おしく背や頭を撫でる牟良人が
「これで全ての結界を抜けた」
と告げると、修験者の少年二人はそこでやっと安堵したのであった…
以前あった倒木が取り除かれ、整備されて通り易くなった山道をさくさく進むと急に視界が開けて山林の黒い陰影から光まばゆい人里へと入ったので一瞬目が眩む。
最初に牟良人と旅人たちを見つけたのは、若草色の丈の長い上着に筒袴(ズボン)というゆったりとした胡の民族衣装の少女だった。
「ムラート兄さまが帰って来た!!」
と山羊の乳搾りを中断した少女はすぐに小さい里じゅうに触れ回った。
すぐに14、5件の家屋から、近くの畑から、奥の工房から里の住人たちが出て来て9か月ぶりに山に帰って来たムラートと客人を取り囲んだ。
住人の半分は金髪碧眼で白い肌の胡人で残りの半分は黒髪に青い目だったり黒髪黒目だったり、と肌も目の色も違う人間たちが色鮮やかな胡の装束に身を包んでこの小さな里で一緒に暮らしている。
その様は空海に唐留学時に見た長安の西市の光景を思い起こさせ、このように一堂に会した渡来人を見たことが無い騒速と素軽に、
山の頂の雲の上にある小さな異国に迷い込んだ…という錯覚すら起こさせた。
「ムラート?本当にムラートなの!」
「お前が急にいなくなって皆心配したんだぞ!」
「人一倍甘ったれなお前がお山を離れて一人で生きられる訳がねえ。色の白い渡来人は珍しいから捕まって売られたか賊に殺されたか…って諦めてたんだぞ!」
「下界で鍛えられて頼もしい顔つきになったねえ、とにかくお帰りなさい」
と里の人々は胡の言葉で次々に語り掛けて牟良人を迎え、牟良人は客人を皆に紹介した。
13年前にたった一人で結界を抜けてこの里までたどり着いた私度僧を大人たちは覚えていて、
「頭剃ってるってことはちゃんと坊さんになれたんだねえ」
あの頃はまだ何者でもなく気の向くままに山野をほっつき歩いて世間の文句ばかり垂れてた勝手な若者だったが。
「ちゃんと寺づとめしてるようで安心したよ…」
と胸撫で下ろす大人たちを背後から押しのけ、ずば抜けて長身の筋骨逞しい若者が牟良人の前に立ちはだかった。
彼は白い頬を上気させて唇を固く引き結び青い両目に怒りをたぎらせている…
「兄上」
と牟良人が見上げた次の瞬間、若者はぱあん!と弟の頬に強烈な平手打ちを喰らわせた。
鼻血が飛び、牟良人の上体が激しく揺らいだ。が、弟は体勢を立て直して真っ直ぐに自分を見据え、
「勝手に出ていった事は謝る…でも、話を聞いてよ兄上」と言い返すではないか。
「…妹との婚儀は今夜だ」
とこの里の長、ファルークこと田辺波瑠玖はくるりと踵を返して大股で工房へと引き返そうとする。
「相も変わらず頑固やな、ファルーク。ちっとは弟の話聞いたらんかい」
「よそ者の坊さんがでしゃばる問題ではない!!」
と波瑠玖は僧侶の手を振りほどこうとしたが手首の関節を極められてしまった。馬鹿な、俺の力を抑え込めるとは!こんな芸当が出来た人はたった一人…
「まさかあんた、真魚さんか!?」
驚きと畏怖の混ざった感情でファルークは傍らの小柄な僧侶を見下ろした。
「今は空海阿闍梨という」
と不敵な空海が笑うと波瑠玖は観念して力を抜いた。
「わしら旅人は山を登りきって少し休みたいし、積もる話もある。解るな?」
解りました、と波瑠玖は部下たちに空海たちを客としてもてなすよう指示してから空海と共に工房に入った。
さっきまで狷介だった人が真魚さんにあやされて大人しくなったよ。
唐帰りの怪しい坊さんだと思ってたけど何だかんだですげえ人なんだな。
「ねえ、そこの娘さん」
と二人の遣り取りを見ていた騒速は番犬に囲まれていた時から自分たちを観察していた「影」に向かって話しかけた。
「なーんだ、ばれちゃってたのね」
騒速の背後の木の枝に腰かけていた娘はくすく笑いながら騒速を見下ろした。
目の覚めるような青色の胡の装束。稲穂のような金髪に明るい空色の眼をしている。
「あんた、名は?」娘が問うた。
「ソハヤ。あんたこそ名乗れよ」
騒速の背の三倍もの高さの枝から娘はくるりと一回転して片膝を付いて着地し、騒速のすぐ目の前に駆け寄った。
「私の名はシリン。丹生志厘姫ともいうわ」
まさかあんた…という騒速の心を見透かすかのようにシリンは、
「そう、ムラート兄様の妹で許嫁よ」
と素っ気なく答えた。
後記
後の弘法大師に「あんた就職したんだね…」とほっとする里のオカンたち。
ソハヤ、ボーイ•ミーツガール?
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