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EP029. あなたと話すだけで心が楽になるわ
高台の病院にあるガーデンは太平洋を一望できる。
海に向かってポツンと置かれている白いベンチ。
ここからの景色は最高だ。
ゆっくりと海を眺める。
ここには時間という流れはない。
この瞬間を切り取った「今」がただあるだけだ。
太陽の光を反射してきらめく広大な水面を見つめていると、光の破片が心の中に入り込んでくる。まるで心の闇をスキャンして取り除いてくれているようだ。
この感覚をいつまでも味わっていたくて、私は一日の大半をここで過ごす。
私は心の療養のためにここへ入院した。もう半年になる。
きっかけは会社で起こったあの出来事。
私は自分を価値のないモノだと思うようになっていた。生きているだけで周りに迷惑をかけているモノだと。何の役にも立たない無駄なモノだと。
結局仕事中に倒れて救急車のお世話になった。
今は随分楽になったけど、まだまだ思い出したくない過去だ。
「あなた、初めてよね。」
同い年ぐらいの女性が声を掛けてきた。
車椅子に乗っている。
「少し話してもいい?」
半年入院しているのに、初めて会う人だった。
「もちろん。どうぞ。」
「ありがとう。」
車椅子を押していたヘルパーさんが気を利かせて外してくれた。
そして彼女は続けた。
「ここからの眺め、とっても素敵でしょ。ずっと見ていても飽きない。」
「うん、気持ち良い。」
「いつここへ来たの?」
「もう半年になるかな。」
「そうなんだ。と言うことは、もう半年以上も経つのかぁ。」
彼女の話では、重い病気の療養で入院しているらしい。病名を教えてくれたけど、難しくて胸の病気だということぐらいしか分からない。もうここで10年近く過ごしているようだ。
「半年以上経つってどういうこと?」
「時々ね、ベッドから起きられなくなるの。意識がなくなることもあって。あなたに会うのは初めてだから、今回はあなたが来る前、そう、半年以上前から寝てたんだなと思って。」
状態が悪くなるとしばらく寝たきりになって、病室から出られなくなるらしい。
「そうなんだ。大変だね。」
「もう慣れたよ。良くなったり、悪くなったり、10年繰り返してるしね。あなたは、ここへ来る前は何してたの?」
「働いてたよ。IT系のエンジニア。」
「働くかぁ、いいなぁ。羨ましい。」
「そんなに面白くないよ、あの仕事は。」
「私はそれを味わってみたいの。」
「普通の仕事だし、大変だよ。」
「実はね、私、働いたことがないんだ。中学生の時に倒れちゃって、それからずっと病院暮らし。だから、私にはどんな仕事も普通じゃないの。」
「あ…、ごめん。」
「謝ることないよ。私は普通にできることが羨ましい。それが辛いことだとしても、大変だったとしても、みんなと同じことがしてみたい。普通のことって、とっても素敵なことだと思うんだけどな。」
当たり前だと思っていたことが彼女には特別だった。普通だ…面白くない…と仕事をなじった自分がとても恥ずかしく、彼女に申し訳なかった。
そうこうしているとヘルパーさんが戻ってきた。
そろそろ病室へ戻らないといけないようだ。
「長く入院してるとね、これといって楽しいこともなくて。ついつい塞ぎがちになってしまうの。いつ退院できるか分からないし、もう退院できないかも知れないから。そうね、ゴールのないマラソンをしているようなものかな。そんな感じだから、来られる日にはここへ来て、海を眺めて心を落ち着けてるの。でも…、あなたと話すだけで心が楽になるわ。今、この瞬間を生きられている私の命を感じられるの。あなたに出会えて本当に良かった。ありがとう。また話してね。」
そんな言葉と笑顔を残して彼女は病室へと戻って行った。
「私にもまだ役に立てることがあったんだ。」
私自身、入院が長くなってきてメンタル的に沈んでいたけど、彼女の言葉で心がスーッと晴れやかになった。
こんなに嬉しい気分は久しぶりだ。
「ありがとう。私の『命』もここにあるって感じられるわ。」
繰り返しの毎日が少し変化した。
会えるかどうかは分からない。
でも、明日もこのベンチで彼女を待ってみよう。
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