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0→1のオリジナルは評価されないということ

こと、芸術に於いては。
という点について、音楽でも、絵画でも、小説やシナリオでも、評価されるものは、樹形図の葉っぱの部分であり、親となる、幹や枝の作品がどの作品の流派かわかるものである。という話。

つまりは、「あぁ、これあの作品っぽい」という部分が無いと、評価されないということを、ちゃんと授業でやったほうがいいと思う。
人間の基礎的な情報として、0→1のものが評価されることをオリジナルというのではなく、オリジナルとは、なんらかの系譜の上に、自分が加工した独自性を加えることが、オリジナルなのだと、そういう価値観なのだということを、きちんと認識させるべきだと思うのです。

水墨画の系譜の上で、油画風のテイストを取り入れる。とか
印象派の系譜の上に立って、ポスターカラーのCGを作成する。とか
写実主義の日本文学の系譜の上で、ファンタジー要素を盛り込む。とか
である。

だからこそ、公募されている大会の欲しているテイストや流派を理解しないと永遠に評価されないどころか、名前の時点で弾かれるようなことが起こるのだ。
アンチテーゼやカウンターカルチャーは、応募するのではなく、独自の出版物や展示会、同人誌で発表しなければならない。

主催者側に立つと、アンチテーゼやカウンターカルチャーが、安っぽく見えるのである。
例えば、丸いカタチのクッキーを募集します!
とした場合、
主催者は、丸いかたちの中に、さまざまな工夫を見たいのだ。
そこに、「アンチテーゼだ!」と言い張って、三角形のクッキーを送ってみたらどうだろう?
主催者としては「今年は(私たちの団体は)、丸って言ったよね」である。

クッキーの例であれば、笑い話で済むが、往々にして、流派の違いを理解できずにぶち当たるのである。
例えるなら、漫才のコンテストに、単独で乗り込むような事態である。「Rのほうに出てください」である。

いずれにせよ、なんらかの流派の影響を受けたことを、惜しげもなく口に出していいのである。
この流派が好きで、もっと刺激的なこの流派の表現を自分なりに表現したくなった。と言えばいいのである。
それが、オリジナルなのだ。

逆に言えば、「私の作品は、系譜のレールなどには載らない!私が始祖だ!」と言い出した若者の言葉は、「はい、勉強し直しておいで〜。あんたのつくったものに似たものはこの世のどこかにあるよ〜」と一蹴されるのである。

ただし、その流派に属して、自分を評価してもらいたい場合に、の話である。
コンクールで賞を取りたい、とか、
テレビ放送される脚本コンクールで認められたい、とか
である。

よくわからないものは、人間が評価できないのだ。
だから、どこかの流派のレールの上に乗っていることがわかりやすいけれど、独自性が付加されている様子のものが評価されるのだ。

カバディの能力が世界レベルに高い選手がいたとしても、日本プロ野球のドラフト会議にかかることはないのだから。

だから、オリジナルを強く求めている芸術家も、過去の作品を知る必要があるのだ。
自分の心が求めている流派が、この世にあるかもしれない。
その心が求める流派が1つあったら、その作品が生み出した過去を踏まえて、新しい時代を自分の手で編み出せばいい。
憧れの作家がすでに亡くなっていて過去の人であれば、自分しか未来に向かって創作できる人材はいないのだ。
極端に言えば、生まれ変わりだと信じてもいい。続きを描こう。

心が求める流派が2つ以上あったら、それは、見事にmariage(マリアージュ)な産物だ。
父と母と(芸術の分野であれば親は2つに限定されないが)を求め、その家系図の未来を、あなたが創り出すのだ。

影響を受けたことを明示すれば、それは、他人が理解するきっかけになる。
特に、若い世代の芸術は、高齢者には理解できない。
だからこそ、少しだけ、他人に寄り添うのだ。他人の理解が追いつかないからこそ、少しだけ、キャプションでハシゴを掛けてあげるのだ。
腰を低くして、こうべを垂れながら「私の高みにまで、登っておいで」と招くのだ。

オリジナルは理解されない。

だからこそ、一般市民や評価者が「オリジナル」をどのように定義しているかという前提を整理する必要がある。

周囲に理解されれば、あなたがひとつの芸術ジャンルになる。
さまざまな系譜の下にあるけれど、「今」を描く有名な作家になる。
そうすれば、あなたの独自性を評価する人が、「あなたの新作」というだけで評価し、オークションで高値をつけてくれるようになる。

人生の序盤は、残念ながら、「人間という浅はかな郷に入っては郷に従う」必要があるのかもしれないよ。

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