第8回 雨ニモマケズ手帳と高知尾智燿
雨ニモマケズ手帳とは
雨ニモマケズ手帳とは、ご存知の通り宮沢賢治死後に見つかった手帳である。有名になった雨ニモマケズを含んでいるので、雨ニモマケズ手帳と呼ばれている。弟清六が東京に革トランクを持っていき、その内ポケットから偶然見つかったものだった。手帳の使用時期は、昭和6年10月上旬から年末か翌年初めまでと推定される。
高知尾師のススメ
その雨ニモマケズ手帳 135から136頁には次の文章がある。
晩年の手帳にあったのだから、生涯宮沢賢治に高知尾師の法華文学の奨めが心の中にあったのは間違いない。では高知尾師とは如何なる人物であったのか。
同人号白瑞、本名誠吉。明治16年、千葉県に生れる。早稲田大学在学中、高山樗牛の文章に感銘、樗牛追悼会で、智学先生の講演をきく。千葉県成東中学、福島県磐城中学へ奉職。最勝閣(静岡三保)の講習会に参学。明治44年に入会。大正3年、教員を辞職して、最勝閣に本化大学準備学会教授として奉職、内護同人に列せられる。以来国柱会理事、天業青年団幹事長、明治会講師などを歴任。恩師滅後は統務または講師長老として本部方城に居住して会務に精励、60有余年の長い歳月法の為に献身し昭和51年8月5日、92歳をもって帰寂。(国柱会HPより引用)
大正10年1月23日、賢治が家出上京し国柱会館に訪問した際、対応に当たったのが高知尾智燿であった。いったん、東京の親戚に身を寄せ、改めて、毎晩講演があるのでおいでなさい。ゆっくり御相談いたしましょうと伝えたという。
法華文学のススメ
一般的には高知尾知耀が法華文学を勧奨したとされるが、高知尾智燿本人によれば宮沢賢治に明確に法華文学を勧奨した記憶はない。(『宮沢賢治の宗教世界』 620頁)しかしながら末法の世の修行においては、田中知学先生が平素教えられているとおり、文学者はペンを以って法華経を弘めるのが正しい修行の在り方であるということを力説したと思われるとのこと。私見だが、つまりは、文学は法華経信仰を通じたものでなければいけないと言いたかったのではないだろうか。
おのれの小才
再度、雨ニモマケズ手帳から引用しよう。139から140頁であるがここは左から右に向かって書かれている。
ここでいう、小才。菩薩の冥助とは何か思い考えてみた。国柱会の折伏(しゃくぶく。他宗から強く教化すること)は、自分が折伏するのではなく、日蓮聖人ただ一人がするものであり、われわれは取り次ぎに過ぎないのだという。自分が折伏するのは慢心だと。
これは、宮沢賢治の考えた法華文学に当てはめればどうか。自らの才で法華経を弘めるのが小才だとしたら、法華経という目に見える言葉を使わずに、法華経信仰でひたすら菩薩に見えない助けを求めて文学を創造することではなかったか。唯一法華経の如来寿量品第十六という単語を作品に掲載したのは、「ひかりの素足」だけである。作品中、にょらいじゅりょうぼん第十六、として登場する。賢治は、下書きに「余りにセンチメンタル、迎意的なり」と記しており本人の評価は高かったとは言い切れないであろう。しかし作品として評価は高い。こうしてみれば作家の生涯としては直接的に法華経を描くのは避けたことは間違いない。
高知尾智燿と、賢治の最後
高知尾智燿との最後について触れてみよう。逝去する昭和八年高知尾智燿への年賀状を送っているが、形式的なものかどうかは分からない。現状では高知尾智燿との交流はこれで最後になる。
宮沢賢治は最後まで国柱会会員であった事は間違いない。しかし国柱会会員であったのは妹トシを国柱会合葬墓に分骨したことにこだわり、配慮、または慚愧の念からと見る方もいれば、終生国柱会に熱い信仰があったと見る向きもある。また、御本人の分骨はなく、花巻市日蓮宗身照寺にすべて納めている。諡法は遺族からの申し出で国柱会からであった。当時身照寺に宮沢家は改宗しておらず、安浄寺のままであった。諡号は「真金院三不日賢善男子」。
終わりに
もっと、国柱会について調べたい。宮沢賢治にとっては信仰が文学であり、文学が信仰であった。関徳弥宛の書簡195 でも
と述べている。あながち間違いではないかもしれない。
宮沢賢治の文学をすべてを信仰に引き寄せていると捉えられるかもしれないが一つの仮説である。より丁寧に検討していきたい。
参考文献
『田中智学先生略伝』田中芳谷著(真世界社・師子王文庫)
『「雨ニモマケズ」の根本思想』
龍門寺文蔵 著 大蔵出版
『宮沢賢治の宗教世界』大島宏之編 北辰社
『宮沢賢治全集』ちくま文庫
国柱会 HP