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言語習得における拙速と巧遅
そろそろ、子どもが言葉を習得する過程について話したい。
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子どもは大人が第二言語を学ぶ時と違って、即時マッピングという方法で言語習得しているらしい。即時マッピングとは、ざっくり制約の中で推論立てして「どうやらこの言葉はこれを示しているらしい」という処理を何回も繰り返すことを言う。
こちらの記事が詳しく解説してくれている。
1~6歳の間に、言葉の発話に伴う「指さし」や親の目線などの、非常に曖昧な手がかりから、発話された音の連なりを「意味」と結びつけて行くのです。子供はたった一度、新しい言葉を導入しただけ、その言葉を特定の概念領域に対応づけ、それにより、既成の表象を再編成する。
「リンゴ」と言う音の連なりが、私達の意味する所の「林檎」だけをさし、他のモノを指さない事を確定する事は、実は論理的には非常に難しい問題を含んでいる。
「りんご」と言う音の連なりが、目の前にある沢山のモノの中で、これと<ゆび>で指示されているモノをだけを呼んでいる事の論理性を問うのです。その前にゆびで指し示すものが、お米の粒を区別して特定のこれと区分けされるのとは違い、色とか形や大きさで区別できるのであり、それは言葉による指示とは別の感覚知覚による区別と言うことになる。だから10個のパイプ椅子は、みな同型で大きさが同じで、一個一個は皆同じと言う事でしか捉えようがない が、10個ある机に対しては、別々のモノである事が、その形や大きさで、それぞれ違うと言う判断をするのです。
対象に付いての曖昧な知しか出来ていなくとも、言葉を話していくのであり、この曖昧さの中にあって実践として言葉を話していく時の子供の認知力に、生まれながらに曖昧さに見えるモノを区別してくれる「概念的枠組み」「認知的バイアス」があるからです。
おもしろいのは、生まれたばかりの子どもは知識が曖昧なのに、対象のちょうどいい抽象度具合を示す言葉を日常のなかから学び、調整していく能力を生まれながらにもっていることだ。
しかも、その習得過程が子どもによって異なる。
うちの姉と弟をみていると、
姉:言葉が正しいそうであるか考えてから言葉少なだが正しい言葉を遣おうとする
弟:赤ちゃん語で会話しはじめ、徐々に意思疎通ができる言葉に置き換わっていく
という言語習得の変遷がおもしろい。
本人の性格もあると思うが、弟は姉のふるまいをマネしているところがあるので一概に先天的とは言えない。
中国の兵法書「孫子」には「拙速(せっそく)は巧遅(こうち)に勝る」という言葉がある。拙速は速いが拙い、巧遅は遅いが巧いと熟語の意味そのまんまなのだが、姉と弟の言語習得がちょうど拙速と巧遅の関係になっていておもしろい。
すべてのことで拙速は巧遅に勝るとは思っていないので、子どもそれぞれのやり方でうまく言葉を扱えるようになってほしいと思う。
なにとぞ。