心が亡くなるとき
そろそろ、心が亡くなるときの話をしたい。
価値観は人それぞれでいいのだが、
自分が主体的になっていない時間が苦手だ。
すこしでも減らしたいと思っている。
例えば、自分がそこにいなければいけない理由が曖昧なまま打合せに参加するとか、目的もなくネットサーフィンしてしまってもっとやりたかったことに時間を割けていないとき。
さらにいうと、よく使う情報の入力も減らしたい。
メールアドレス、電話番号、住所、よく使う定型文は辞書登録して時短をするように心掛けている。
毎日数秒でもチリも積もれば莫大な時間になる、と思っている。
そうして考えたいことに脳をどっぷり浸からせたいし、考えないでぼーっとすることに脳を誘いたい。
これは僕の感覚なので、
時間の遣い方は本当に人それぞれだと思う。
そう考えると「忙しい」の定義は主観で相対的すぎると感じる。
やることで埋まってしまって忙しいのか、自分本位の時間がとれていないことが忙しいのか、心が疲れてしまって忙しいのか。
いろんな「忙しい」がある。
「心が亡くなる」と書いて「忙」、忙殺とも言う。
自分なりの「心が生きる、活きる」状態を定義して保とうとすれば、それは忙しくないと言えるかもしれない。
今日は忙しいので、このあたりで。
なにとぞ。