岩戸隠れ

30代、人生に疲れて引き籠ることにしました。

岩戸隠れ

30代、人生に疲れて引き籠ることにしました。

最近の記事

本当にどうしたら良いのかわからなくなってる。

メンタル病んでて本来なら専門家頼らなきゃいけないレベルなのは理解してるけど正直もう患者の存在無視で「処方・処置は合ってるはずですけど(なんであなたの鬱・パーソナリティ障害等は改善しないんですか)?」的な医者・臨床心理士・カウンセラー5ヶ所も通ってしまったので新規開拓する気力もなければ専門家なら安心して相談できるという気持ちもなくなってしまったし「症状を良くしたい」と思うこともなくなってしまったし、居候させてもらってる実家はそもそも価値観が全然合わない上に「元気のない娘を【助け

    • 無題

      とりわけ活動的な訳でもなく、自ら進んで人と関わりに行く性格な訳ではない。 むしろインドアな性格で、一人の時間を好む。 「外の世界」でバリバリ活躍している訳ではないのだけれど、自分に今あるものや与えられた環境に満足しており、感謝もしていた。 そのような生き方を「悪」として批判されたら、私はどう生きれば良いのかわからない。 今の自分に満足し、その生活に感謝をしながら過ごすことを「なにもしていない」「怠惰」と形容されるなら、私には生きる価値がないということだろう。 私は「外の世界」

      • 記憶の発作

        「お前は何をしてもうまくいかない」 「お前には何も似合わない」 「お前の選ぶものはすべて不正解だ」 「お前に幸せになる権利はない」 「お前には価値がない」 自分に対してそんな気持ちにしかなれない時が定期的に訪れる。 そんな時に限って過去の記憶が蘇る。 親から嫌なことをされ「やめて」と伝えたのに聞いてもらえなかった時。 片言な英語しか喋れない外国人だからと現地の同級生にいじめられた時。 いじめっ子に近付いたという理由だけで同学年のほぼ全員から無視された時。

        • 嫌な記憶が重なる日

          今日は祖母の祥月命日であり、私が嫌いな人の誕生日でもある。 なぜが私は大人になるにつれて祖母を苦手に感じるようになっていった。 親戚間が拗れる要因の一人であったからなのかもしれない。 決して祖母から憎まれていた訳ではなかった。 むしろ愛されていたと思っている。 只、彼女の愛は条件付きだったと思っている。 祖母とともにいる時は、彼女の「理想の家族像」を演じなければならない。 小学生になってから、そのようにずっと感じていた。 あまり「子供らしいワガママ」を言う機会が与えられない

        本当にどうしたら良いのかわからなくなってる。

          一か月と少しぶりの散歩

          やっと重い腰を上げて、少しだけ外に出る気になった。 本当は思い切り遠出がしたかったのだが、移動手段がなかったことと体力の不安があり近所を徘徊する程度で終わった。 正直、外を歩いている間はおそらく対人不安による気持ち悪さが続いたので、ずっと散歩をしたい気持ちと早く帰りたい気持ちがせめぎ合っていた。 予想した通り体力もだいぶ落ちており、少し歩いただけで筋肉痛と関節の痛みが生じた。 予想外だったのは足の裏の痛みだ。 履きなれたはずのスニーカーを以てしても、まるで足に合わなくなってし

          一か月と少しぶりの散歩

          外出予定

          久しぶりに外出の「予定」ができた。 趣味がきっかけで趣味外でも交流するようになった友人からの誘いだ。 数か月前から何度も会う約束をしていたのだが、毎回コロナが最も猛威を振るった時期に被ってしまった為なかなか実現させることが出来ずにいた。 それでもお互い懲りずに計画を練り、仮にはなるが再び会うことを約束した。 その友人は私の体調のことや家の事情を知っている数少ない人だ。 普通の人なら話せばおそらく「この人と付き合うと面倒くさい」と思われそうなことも、その人は知っている。 その

          不眠

          身体の痛みでなかなか寝付けない。 たまに現れるヒステリー球がいつもより酷くて気になる。 身体の不快感に刺激されて思考も全く静まらない。 やっと眠気が訪れたと思えば、むずむず脚症候群のような症状が脚ではなく胴体に起こる。 常に脇腹をくすぐられているような感覚のまま、熟睡もできず3、4時間程で目が覚める。 外はまだ暗い。 今から二度寝をすれば確実に起きるのは昼過ぎだ。 そもそも二度寝に誘われそうな眠気すら何処かへ行ってしまった訳なのだが。 眠れない夜の、ありがたみの無い役満が揃

          「綺麗な世界」しか受け付けられない人

          誰も傷つかず、誰も悲しまず、争いもなく、平和で皆が笑いあって平穏に過ごしている世界を望む。 そして、そんな世界に少しでも近づくため自ら進んで実現させるための行動を起こす。 非常に素晴らしいことだと思う。 ただ、その取り組みが歪な方向に向かうと、人は共感性を持たない存在になってしまうのだと感じている。 現に傷つき悲しんでいる人には「悲しんでいると更に悲しみを引き寄せてしまうから悲しんではならない」という。 つらい思いをしている人には「つらいのはあなただけじゃない」という。 理

          「綺麗な世界」しか受け付けられない人

          隣の芝生はいつも青い

          うつを克服できた人の体験談を聞いたり、障害のある人が発信している日常生活の動画を見たりすると、必ずと言って良い程その人が【身近な人からの理解】に恵まれていることを感じている。その人が支えに恵まれた環境にあることを嬉しく思い、本人とその周りの人たちの幸せが末永く続くことを祈る一方で、とても羨ましく思い自分の惨めさをひしひしと感じる。私の身近には正直、そんな人がいない。もともと一人が気楽で好きなので孤独であることに対し何も思わないが、自分という存在の根本を否定する人と共に過ごすの

          隣の芝生はいつも青い

          波の感覚

          不謹慎な話にはなると思うが、私は良く希死念慮を抱く。 しかしここ数日は特に酷く、どちらかと言えば自殺願望に近いものだった。 ほぼ毎日「死にたい」という気持ちだけでなく「どうやって死ぬか」を本気で考えていた。 それが突然、強迫観念にも近かった死への欲求が希死念慮へ戻った感覚があった。 死にたい気持ちが消えたと言うよりかは、そこへのフォーカスが向きにくくなった…とでも表現しようか。 何か特別なことをした記憶も無ければ、死にたい気持ちや死ぬ方法を考えることを強制的に止めることもし

          専門家すら信じられなくなるまでの経緯

          私は現在、再びうつを再発している自覚はあるものの医療機関には一切掛かっていない。簡単な買い物などの外出ができるほど元気がないのも理由のひとつだが、どちらかと言えば自分の中で医療機関ですら信用できなくなっていることが大きい。私はこれまで数件心療内科を転々としている。運が悪いのか、相性の良い医師やカウンセラーになかなか出会うことが出来なかった。 過去にとある病院へ駆け込んだ際「抑うつ状態」と診断された話をしたことがあるが、実はその前には別の心療内科へかかっていた時期もあった。自

          専門家すら信じられなくなるまでの経緯

          自己肯定感

          私は間違いなく自己肯定感が低い。 自分のことが嫌いだ。 元気な頃はそんな自分でも、少しでもいいから好きになりたいと思って頑張っていた時期があった。 今はそんな気持ちすら湧いてこない。 嫌いなものは嫌いだ。 セルフ・ネグレクトに慣れてしまった感覚すらある。 自分を好きになろうとした時だって結局、自分を愛するために対価を要求していたと思う。 容姿を褒められること。 人に好かれること。 役立つ存在であること。 迷惑をかけないこと。 何かしら「出来ない」ことのある自分は、元々が他人

          自己肯定感

          Sorry I'm not sorry

          謝罪もよくよく言葉に注意を向けると実際には心から謝っていないように感じることがある。 表向きは「ごめんなさい」と言っているので謝罪に見える・聞こえるのだが、よく考えると自己弁護でしかなかったり、時には遠回しに相手を否定している場合もある。 例えば口喧嘩で酷いことを言った時、誤るとしたら何と声をかけるだろう。 「あの時、あなたを傷付けてごめんなさい」なら自分の言動を反省するとともに相手の気持ちに寄り添う姿勢を感じられる。 これが「あの時、自分がしっかりしていなくてごめんなさい」

          Sorry I'm not sorry

          「疑う」というサバイバル術

          ありがたいことに、私には片手で数えられる程度だが忘れた頃に声をかけてくれる友人が数人いる。こんな自分を相手にしてくれる皆には本当に感謝している。その一方で、どうしても「本心では『厄介な奴』と思っているのかもしれない」「本当はあまり良く思ってないけれど、特定のメリットがあるのでとりあえず付き合ってるだけなのかもしれない」と疑わずにはいられない自分もいる。友人たちへ根拠も無く猜疑心を抱くことに罪悪感はあるのだが、それ以上に精神的な自己防衛本能が過剰に働いてしまう。

          「疑う」というサバイバル術

          鉢植えの雑草

          私の部屋にはシクラメンの鉢植えがある。 そこには雑草の小さなクローバーのような草も生えていた。 昼間は光合成のため三つに分かれた葉を目一杯広げ、日が落ちるのとともにその広げた葉を閉じるその様子は、その植物が生きていることを感じさせた。 ところが最近の私は部屋の光を遮断した生活をおくっている。 その影響なのか先日ふと鉢植えを見たら、クローバーがほぼ全て枯れていた。 休眠のため葉を閉じている様子とは違い、昼間にも関わらず葉が明らかに萎み色を無くしていた。 そこには以前のような「

          鉢植えの雑草

          ノイズキャンセリング

          うつに伴う症状なのか、発達グレーの延長なのか、私は聴覚過敏の傾向があるらしい。子供の頃は、遠く離れた部屋でブラウン管テレビの電源がつく瞬間がわかった。今はと言うと、家の外から聞こえる学生や奥様方の井戸端会議に気が散ってしまう。隣の部屋で扉が開いたり閉まったりする音に驚いてしまう。食器を洗っていて皿や金属製のスプーンなどがガチャガチャぶつかる音だけで疲れてしまう。酷い時にはスマートフォンの充電器すらうるさく感じる時もある。出入り口でモスキート音を常時流しているビルに行かなければ

          ノイズキャンセリング