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なぜサツキとメイにトトロが見えるのか? ジブリで学ぶ心理臨床学①「となりのトトロ」

(本連載はCHAO通信様からの依頼原稿です。許可を得て掲載しています。画像はスタジオジブリの公開画像を使用しています。)

 この連載では、臨床心理学の視点や理論をもとに、スタジオジブリの映画の「謎」や「疑問」に迫ります。これが正しい解釈です、という訳ではありません。あくまでも臨床心理士の視点ではこう見えるということです。お読みいただいた後でジブリ作品を見ると、新たな見方ができたり、作品をより深く味わうことができるように書いてみようと思います。

子どもたちが大好きな「となりのトトロ」

 わたしは「となりのトトロ」を見ている子どもを横で見ているのが好きです。映画の世界に入り込み、口は半開き、指をくわえ、表情がイキイキと動きます。トトロや猫バスの登場シーンでは、まるで自分が乗ったり触ったりしているかのような表情をしています。「サツキ」と「メイ」の姉妹の気持ちにシンクロして、ホッとしたり、不安になったりしているのを感じます。それを見ていると、子どもたちをこんなにもひきつけるこの映画の凄さを実感します。大人でも(邪念や雑念を払う必要があるかもしれませんが)トトロをじっくりと見ると思わず引き込まれてしまうはずです。「となりのトトロ」はわたしたちの心の何か重要なものに触れているのです。

なぜ、サツキとメイにトトロが見えるのか?

 さて、最初の謎に迫ってみましょう。なぜサツキとメイにはトトロが見えるのでしょうか?
「子どもの時にだけあなたに訪れる 不思議な出会い」
と歌われているように、純粋な子どものこころだから見えるというのが一つの答えでしょう。しかし、子どもだからトトロが見えているというわけではありません。たとえば、隣の家のカンタにはトトロは見えていません。それどころか、姉妹にも見えていないシーンも見られます。たとえば、引っ越しの夕方、サツキが薪を集めているシーンで風が巻き起こりますが、その時にトトロか猫バスが通っているのですが、サツキにはそれは見えていないのです。
 どうやらトトロに会うためには、子どもであるだけではなく、なんらかの条件が必要なようなのです。

両親の神対応

 はじめにトトロに会ったのは妹のメイでした。ここでは、謎解きのためにトトロに会うまでのメイのこころの動きを見ていくことにしましょう。
 引っ越しの日に姿のないお母さんは、病気で病院に入院していることがわかります。トトロに会う前日、父親とサツキとメイの3人はお母さんのお見舞いに行きます。母はとても優しく、「おばけ」が住んでいる転居した家のことも「楽しみ」と言って子どもたちを励まします。ちなみに後に紹介する「千と千尋の神隠し」の千尋の両親と「となりのトトロ」の両親はタイプが全く違うことにも注目してください。トトロの両親は、子どもたちのこころを気遣い、想像力や冒険を促進するサポーティブで理想的なよい親として描かれています。引っ越しで忙しい時に子どもたちが屋根裏で遊んでいても叱ることがない「神対応」が随所に見られます。(お父さんが頼りないという意見もありますが、それも含めて理想的なのではないでしょうか)それにひきかえ、千尋の両親は子どものこころへの思いやりに欠け、自分の欲望を追求する「塩対応」の親と言えます。もちろん、千尋の両親の方がよりリアルで、現実に近く、トトロの両親がレアなのではと私は感じますが。
 ともかくこの両親の「神対応」と「塩対応」、このことが「サツキとメイ」と「千尋」が体験する世界が大きく異なっていくことと関係しているのですが、その謎については追い追い明らかにしていくことにしましょう。

メイの願い

 お見舞いに話を戻しましょう。やさしいお母さんとの嬉しい再会の帰り道「お母さん元気そうだったね」と話し合いながら、メイはこんな発言をしています。

メイ「おかあさん、メイのお布団で一緒に寝たいって」
サツキ「あれ?メイは大きくなったから1人で寝るんじゃなかったの?」
メイ「お母さんはいいの」

 メイは引っ越しの日も「怖くないもん」と強がっていますから、かなり負けん気の強い女の子なのでしょう。怖い時ほど怖くない、と言うのだとしたら、本当は布団でお母さんと一緒に寝たいのはメイ自身ということになります。(このこころの動きは、「防衛機制」と大学の心理学の授業で学びます。かなえられない辛い気持ちを反対の気持ちにしたり、自分ではない人の思いにして、その辛さを紛らわすのです。)そうだとすると、実はこのお見舞いの帰り道、メイはお母さんに早く帰ってきてほしい、そして一緒に寝たいという気持ちが浮かび上がってきているのです。これはもちろん、4歳のメイとしては当然の気持ちと言えるでしょう。
 さて、お見舞いの翌日です。慌ただしい朝の風景、姉のサツキはまるでお母さんが乗り移ったかのように、朝食とお弁当の準備に余念がなく、友達が迎えにきて学校に早々と登校してしまいます。お父さんはいるのですが、徐々に自分の研究にのめりこんでいきます。
 そうして、一人取り残されたメイの前に、ついにちびトトロが現れるのです。ちびトトロを追いかけていくと、メイは木のうろの中にいる大きいトトロと出会います。そしてメイは、トトロのホワホワの柔らかいお腹の上で気持ちよさそうに眠りにつくのです。(ちなみにこのシーンを見ている子どもの顔がじわじわ緩んでいくのを見るのは観察する価値あり、です。)
 まさに、メイが前日に感じた「お母さんと一緒に寝たい」という願望が叶った瞬間でした。お姉ちゃんは学校、お父さんは研究、そこで1人取り残されたメイの「お母さんと一緒に寝たい」という切実な願いがトトロによって叶えられたのです。

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 トトロの名前の由来

 「トトロ」という名前は、メイがトトロが答えた言葉を聞いて名付けたようなのですが、トトロ自身は正確には「トロル」(木の妖精)と答えたのかもしれません。「トロル」と言えば童話の「3びきのやぎのがらがらどん」に出てくることで有名ですが、あの話で出てくるトロルは、トトロと似ても似つかないゴツゴツした恐ろしい顔で、しかも脅してくる存在でした。しかし、トトロは柔らかく、可愛らしく、しかも頼もしい存在です。怖さや恐ろしさは微塵もなく、保護的で愛らしいぬいぐるみのようですよね。私の見るところ、このトトロはまさにサツキとメイにとっては「トロル」はこう見えるのであって、見る人が別になれば、もっと怖かったり、恐ろしいものに変わり得ると思います。実際、千と千尋の「千尋」の湯屋の世界に出てくるおばけ?たちは怖いものや得体のしれないものがたくさんでてきますよね。サツキとメイがこころにもっている信頼感がこのトトロに反映しているのだと思います。やさしく保護的な親像がトトロに写し出されていると考えられましょう。

サツキとトトロの出会い

 話を戻します。メイが切実に願った時にトトロと会うことができ、夢は叶いました。トトロに会える条件が少しずつ見えてきました。
 次はお姉ちゃんのサツキがトトロにはじめて会う時を検証してみましょう。サツキがトトロに会うのは有名なバス停のシーンです。あの日、雨の中、夜になっても帰ってこない父親を姉妹で待っています。そのうちメイは疲れて眠ってしまい、サツキがメイを背負いながら父の帰りを待ちます。いつものバスにも父は乗っていなく、背中の妹は重く、雨は降りやまず、真っ暗な中、自転車の音だけが怖く響いてきます。ここで、サツキも1人不安と寂しさの中で戦っています。まさにその時、トトロが現れます。トトロに続いて現れる猫バスと遊んだり、贈り物をもらったりしているうちに、サツキがすっかり元気になっていくのがわかります。

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 おわかりいただけたでしょうか?トトロはいつでも会えるのではなく、1人で不安な時、その不安を乗り越えようと切実に願う時、それを叶えるために現れるのです。メイもサツキも1人で心細い気持ち、不安な気持ちを抱えていた時、トトロへの道が開けたのです。
 きっと千尋の両親であれば、「そんなものいるわけないでしょ」などと塩対応されそうですが、トトロの両親は「私も会いたいな」「お父さんも見てみたいな」とメイとサツキのトトロとの出会いを肯定し、好奇心を育んでいくため、その後も2人とトトロとの順調な関係が続いていきます。

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「夢だけど、夢じゃなかった!」


「夢だけど、夢じゃなかった!」
 印象的な木の成長のシーンでは、サツキとメイが寝ている時にトトロと会って空を飛ぶのですが、朝になると木の芽が芽吹いています。その時に2人が「夢だけど、夢じゃなかった!」と叫んでいますが、トトロはこの夢と現実の中間に現れる存在であることがわかります。トトロは、サツキとメイの願望であり、夢の世界から現実に現れた救世主だということができるでしょう。
 こうして物語が進んでいくと、元気でたくましく見えていたサツキとメイが本当はどんな不安の中にいるかが明らかになってきます。お母さんの退院が延びてしまった時にサツキが泣き出しながらこう言います。

「お母さん死んじゃったらどうしよう?!」

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サツキとメイの不安

 実は、サツキもメイもお母さんの不在と「いなくなってしまうかもしれない」という喪失の不安に晒されていたのです。よく考えれば当たり前なのですが、4歳と小学生の姉妹にとって、母親の入院は心理的な危機をもたらしていました。その中で2人は、強がったり、不安になったりしながら頑張っていたのでした。そしてそんな2人を育てる不在のお母さんの代わりがトトロだったのです。
 母の病気の不安の連絡という現実の不安と心配に圧倒されて、今まで仲の良かった2人もついに大ゲンカしてしまいます。頼もしいお姉ちゃんから、すっかり子どもになって泣きじゃくるサツキを見て、メイは母を助けるため「とうもころし」を病院にもっていこうとします。ここで姉妹の立場は逆転します。しかし、メイは道に迷ってしまい、そのメイを助けるため、サツキはトトロへの道を開きます。
 この時のサツキの不安や心細さ、妹を探す焦りや罪悪感のシーンは見ているもののこころを打ちます。それは私たち皆に覚えがあるものです。家で1人でお留守番していた時「もしかしたらみんながもう帰ってこないのかも」と不安になったり、夜道を1人で帰る時に感じる心細さや怖さ。それは保護者がいなくなり、ひとりぼっちになるかもしれない、という皆が体験したことのある不安や恐怖と言えるでしょう。私たち皆のこころのどこかにあるこの原点的な不安と重なって、ハラハラドキドキ、映画にひきこまれていきます。

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わたしたちのこころの中の”子ども”

 夏の武蔵野の夕暮れの風景が美しく描かれています。そんな中、メイまで事故にあったら?!私のせいだ!と必死に走るサツキの姿は、まさにわたしたちの子ども時代の記憶を呼び覚まします。頬を伝う汗と涙、足の裏の痛み、走り続けた時につまる喉の感覚・・・このシーンは五感と記憶を動員させれば、私たちの心の中の郷愁や追憶に辿り着く名シーンだと思います。こんなこと私にもあった、という感覚を探してみてください。

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 トトロや猫バスの力を借りて、この危機は乗り越えられます。裸足のサツキの傷ついた足を猫バスの床がほっこりと包む時、私も見ている子どもたちも思わずホッとします。そうして母の無事を見届けた2人はどこか成長した面持ちで木の上に座っていて映画はクライマックスを迎えます。
 もう忘れてしまっているかもしれませんが、子どもの頃、このような不在や分離などのこころの危機を体験し、それを乗り越えながら、わたしたちも一歩ずつ大人になってきたのです。その時、心細さを乗り越えるため、ぬいぐるみを抱っこしたり、空想に耽ったりもしてきました。本を読んだり、アニメや映画を見ること、戦隊もののヒーローやプリキュアに救世主を見るのもそんな心の動きの一端と言えましょう。しかし、そんな時にこころの守りが十分でない時は、空想は怖いものや不安に圧倒されてしまうこともあります。そんな時、子どもたちは「3びきのやぎのがらがらどん」のトロルのような怖いおばけに会ってしまって、悪夢になったり、パニックになってしまうこともあるのです。

子どもの空想の力

 エンドロールを見ると、母親が帰宅し、サツキとメイが幸せに過ごしていることが伝わってきます。
 「子どもは、様々なこころの危機を、空想や夢の世界を駆使して逞しく乗り越えていく」となりのトトロを通して伝えたかったことはそんなメッセージのように私には思われます。
 だがしかし、です。「となりのトトロ」はあまりにいい話過ぎると思いませんか?おそらく、きっと宮崎監督もそう思ったのでしょう。現実はもっと複雑で困難なものですし、その中で成長していくのも簡単なことではありません。トラウマや矛盾、あるいは喪失体験などの困難も人生で避けて通れないものです。そして、少し触れましたが(これを書いている私も読んでいる皆さんも含めて)リアルな親はトトロの両親ほどにはゆとりはなく、あんなにも肯定的にはなれないはずです。
 「となりのトトロ」をまずは世に送り出したことで、子どもの基本的な力について描くことはできました。しかし、宮崎監督の次のテーマはもっと困難な状況で子どもたちはどう生き延びていくのか、という問いに進展していきます。それが「もののけ姫」であり、「千と千尋の神隠し」につながっていくのです。
 今回はここまでといたしましょう。次回もどうぞよろしくお願いいたします。

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