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HOTEL 機能不全家族。

秘密にしていたわけではないけれど、
家の中で、わたしは母の足音や声にいつも緊張していた。

彼女の感情は、わざとわたしに聞こえるように乱暴なバタバタというスリッパの足音に変換される。「今から行くわよ」2階の部屋にいるわたしを監視しにくる時の合図だ。

「ただいま」「おかえり」「おはよう」
家の中での挨拶は、当てつけのような乱暴な言葉にしか聞こえなかった。会話がないんだからせめて挨拶くらいしっかりしなさいよ。という母が決めたこの家の最低ルールだったのだと思う。無駄な見せかけだと思っていたけれど、その形式的な言葉が唯一、形だけでもわたしたちを繋ぎ止めてくれているものだとするなら、喉を塞ぐ重い蓋を開けてなんとかその言葉を空中に解き放つ。

3階建ての家のどこに母がいるのか常に把握することができた。
部屋にいても、廊下とキッチンを挟んだその向こうのリビングから、母が何かわたしへの文句を父に話す時は、はっきり聞こえなくてもそれがわたしへ発せられている何にかだということがわかった。わざと大きな声で喋っていたから、どうにかしてわたしに伝えたかったのだと思う。それほど母の中でも吐き出さなければならなかった感情なのだろう。吐け口があることは良いことだ。

子ども部屋にテレビを置くのは禁止だった。
わたしがどんな番組を観ていても「そんなもの観てたらバカになるわよ、気持ち悪い」母の口癖だった。うちにはテレビが2台あったけど、1台はいつも兄がゲームで占領していた為、わたしがテレビを見るのは両親がいない時か寝てる時だけになった。
こちらが楽しんでいるのに、いちいち文句をつけられるのも最高に嫌だったし、どんな番組を見てどんな感情を抱くのか知られるのはもっと嫌だった。テレビを通じてさえ感情の共有は不可能だと思っていた。部屋にテレビを置かなくても、わたしは自分の部屋から出ることはあまりなかった。
わたしが部屋に閉じこもることに、彼らが何か不吉な妄想をしていたことは肌感覚で伝わっていたけれど、同じ空間にいないことが自分の身を守る術だった。それでもきっと”不良の証拠”を見つけるために部屋の中は隅々まで確認していたのだろう。
部屋の中で過ごすことを阻止したところで彼らには解決するための術なんて持ち合わせていないことも肌感覚でわかっていた。

母の勤務スケジュールが書かれたカレンダーの「日」(日勤の意)のマークを確認してはホッとしている自分がいた。

家族それぞれが互いの知らない世界の何かと繋がりながら生きていて、わたしたちは互いに繋がってはいなかった。(それはわたしだけだったのかもしれないけれど)
相変わらず忙しい両親、寡黙な兄、ゆとりな弟、”不良”なわたし。生活スタイルはそれぞれに確立されていて、接点はほとんどなかった。そこはただ寝に帰る場所というだけで、ずっと知っているはずの場所なのに、わたしにとって心の底から安心できる場所ではなかった。HOTEL家族になるのはあまりにも自然な流れだったのだと思う。

やっぱりこれは、うちの秘密だったのかもしれない。

”いい子”は言われなくてもわかるから。誰かに言うべきじゃないって。

家の中の”違和感”を誰かに聞いてもらうという選択肢なんて、最初からなかった。

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