きっと君は来ない。忘れられないクリスマスイブ
父は都内のその先まで片道2時間を定年退職するまで通った。朝の通勤ラッシュを避けるために家を出るのは始発電車に間に合う時間で、帰宅はいつも21−22時頃だった。
母は看護師で、近所の市立病院に勤めていた。日勤、夜勤、夕方から夜まで勤務。不規則な勤務スケシュールが、リビングのカレンダーに毎月欠かさず書き込まれていた。
「日」「夕」「深」「休」。
「日」の文字にホッとする自分がいたのは、確か小学校高学年からで、母はわたしを「不良」と呼び始めた頃だった。
16時から勤務の「夕」の日は、週に1〜2回あって、温めるだけで食べられるカレーかオムライスが準備されていていた。帰りの遅い父を待たずに、兄弟だけで食事を済ませるのだけど、夕食を共にした記憶がない。
そもそも最後に家族全員で食卓を囲んだのはいつだろうか?小学校、土曜日お昼だったかもしれない。
その日はクリスマスイブだった。母は夕方から勤務の日でわたしは中学生だった。
オムライスが準備されていただろうか?わたしが部活から帰ると、弟は夕食を食べ終えた後で、リビングの隣の部屋のテレビの置かれたコタツで寝落ちしていた。もうすっかり日は落ちていて蛍光灯の明かりが灯されたリビングで、わたしも一人夕食を済まそうとしていた。テレビはつけなかった。スプーンがお皿に当たる音とガスストーブの音だけが部屋の中に響いていた。
テーブルは相変わらず汚かった。立派な木製のリビングテーブルに、可愛らしい黄緑色のキッチンクロスがひかれていたけど、しばらく洗濯されていないようで食べこぼしがそのままにされていた。調味料、新聞紙、ペン、食パン、パンフレット、学校の書類、観葉植物、お皿、コップ、ビニール、ゴミかそうじゃないのか?いやゴミだろう。と思えるものが無造作に置かれ、4人分のオムライスのために無理やりスペースが作られている。いつもの光景。
部屋の中も洗濯物や新聞紙、モノモノモノに溢れていて、掃除するにも一体どこから手をつけていいのかわからないほどだった。
突然、弟がジングルベルを歌い出した。
寝言だった。しかも歌いきった、、!
何事かとびっくりしたすぐ後に、胸が異様に締め付けられた。怒りと悲しみが混ざったようなどうしようもない気持ちだった。ジングルベルで使命感のスイッチが入りすぐさまそれは実行に移された。
自分の財布を持って近所のケーキ屋に行った。迷ったけど、弟とわたしと兄の分だけでいいと思った。散らかったテーブルとリビング、キッチンを掃除して、お風呂を沸かした。勢いづいて、掃除機をかけ始めたら弟は起きた。わたしはものすごく明るく振る舞った。同時に無理している自分に恥ずかしくなった。
この頃、もうとっくに家族でのイベント事は無くなっていてそれをどうとも思わなくなっていた。巷のイベントは消費PRだと知った時、あの頃色んなものに興味を持たなくなった自分は大人だったんだ、とやたら腑に落とした自分がいた。
もう少し大人になってから、仲のいい母と弟の姿を見て、安堵と虚しさが混じった気持ちになった。
誰かが泣いている。
いくばかりか頭の片隅のケーキの記憶を辿る。きらきらひかる思い出がないわけでは決してないから。あの立派な白いクリスマスツリーが倉庫にある事だってわたしは知ってる。