#01 I was born in 1984.
1984年、わたしは東京の郊外に生まれた。
記憶がほとんどないくらいの時、満遍なくわたしたちの左腕の肩にも9つの点が並んだ刻印が押された。
自転車に乗れるようになった頃、子どもだけの世界が始まって「へんなおじさんについて行ってはいけない。気をつけなさいよ」このセリフが玄関で靴を履く時に聞くお母さんの決まり文句になった。
自宅の固定電話で友達の家に電話をかけて遊ぶ約束をした。日曜日の朝は10時を過ぎないと電話をしてはいけないという家のルールがあって、9時に終るアニメの後、10時までの1時間は果てしなく無駄な時間だと感じていた。
夕食後のテレビでは、プールでおっぱいを出している女の人たちが戦っていて、子どもながらに目を奪われた。
家の鍵をネックレスにして身につけた“鍵っ子”はクラスには少人数で、わたしはそのうちの一人だった。
社会科の授業で聞いた”ドーナツ化現象”の東京郊外の住宅地に暮らし、都心に働きに出かける共働きの両親をもつのもわたしだった。
安室ちゃんがポンキッキーズに出ていた頃、早起きは苦痛じゃなかった。
小学校高学年になると、ノリでルーズソックスを足に固定し、プリクラを交換した。
自分たちの意思で消費者の仲間入りを果たしたこの時期に、家ではテレビが2台から3台に増え、学校のクラスは3クラスから2クラスに減った。
朝の学会で遠い街の人たちのためにお小遣いを募金して、
クラスではしょーこーしょーこーの歌が流行っていて、先生に見つかると怒られた。
「家なき子」や「クレヨンしんちゃん」の言葉遣いを批判する親の反応をよく覚えている。大人達が何か必死に隠そうとしたりしていた。そしてそれは無意味なことだと思っていた。
世の中で流行っていることは大体経験させてくれた子供時代に並行して「常識」という言葉をよく耳にした。
親も学校も世間体を大事にし、わたしたちが不良なるものになってしまうことだけは是が非でも避けたいと願っていたことは肌感覚で伝わっていた。
両親はいつも疲れて怒っていて、彼らが家にいないことはあまりにも日常だった。
そして彼らはわたしとの短い時間共有の中で、すべてを見透かしたように不吉な思い込みを始めていた。
そのことを瞬時に察知していたことさえも、彼らは見透かすことができていたのだろうか?
わたしたちは、不良のそれが何かもわからなかったはずなのに、社会現象のそれに当て込められて、いつも監視されていた。
あの時唯一必要としていたのは、信頼だけだったのに。
中学生になってすぐに衝撃的な事件が起こった。
小学校5年生の男の子の首を切って学校の門に置いたとされる男の子は、わたしたちの学年の2つ上の14歳だった。
クラスの男の子が犯人とされる男の子の顔をコンビニの雑誌で見たと言っていて、それからわたしはアシタカ彦に恋をした。
世の中はどうやら怖いことで溢れているらしい。親もテレビも学校も、大人がみんなそう言っていた。わたしは部活で忙しかった。自分のプレイの極端な浮き沈みの原因が何だったのか、あの頃はわからなかった。
世の中が重くて暗くて少し張り詰めたような雰囲気だったあの時、わたしはテレビのあの子と自分を比較して、自分は幸せで恵まれていると思い込むよりも、よっぽどあの子と共通する”何か”を持っていると考える方が自然に思えた。
結果には必ず原因があり、原因はどこにでも散らばっていて、いつだって誰しもがテレビの中の”あの子”になりうる可能性があったはずではないのだろうか。
誰もが他人を評価することはできないし、決めつけることはできない。大人のいない場所が、私の安心できる世界だった。
高校生になったと同時に携帯電話を持つと、お母さんは毎月わたしの電話代の請求にケチをつけるのが趣味になった。
そして高校2年生のあの夜、家族はテレビにクギ付けになっていた。
大きなビルに、大きな飛行機が突っ込む映像を、この前よりもまた大きくなったテレビ画面でみた。
映画のような世界だと思った。
次の日、わたしはいつも通り中央線に乗って学校へ行った。
別にする必要もないアルバイトをしてみたり、
すでに絶頂期を終えたように思えたイベントサークルに入ったり、大人になることはドキドキするような楽しいことが増えていくことだと思った。
バイト代は女を謳歌するための消費にぜんぶ消えた。
必要なものはすでに全部揃っていたはずなのに
欲しいものは永久になくならないようだった。
キムタクのドラマの影響で、進路に美容師を選択する同級生が多かった。
わたしは学びたいことがなくても、当然大学へ行くものだと思っていた。
「自宅からは通えない距離の大学」
それが唯一の大学選びの条件だった。
あの時、家族の誰しもにとってそれが最善策だったことをわたしは知っている。
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