【寄稿】上田琢哉|SNSとカウンセラーの倫理
SNSとカウンセラーの倫理
私はスマートフォンを持ったのがかなり遅く、長くSNSになじみがなかった。未だにLINEもやっていない。そもそも誰かとつながりたいという気持ちが薄いのかもしれない。LINEくらいやっていないと連絡が取りづらくて迷惑だと言われるが、「いやあ」と笑ってごまかしている。
ただし、個人で開業している相談室では必要に迫られてTwitterを運用している。Twitterを始めてその世界の混沌に驚いた。この何でもありの世界はなんだと。そのうち、Twitterを開きたくて仕方なくなっている自分にもう一度驚いた。
最近、カウンセラーのSNSの利用の仕方に対する議論がにぎやかである。例えば、Twitterで相談者との会話内容や相談者の個人情報にかかわるような情報をつぶやく人がいたり、関連する他職種を批判する人がいたり。かと思うと、カフェカウンセリングという形態でクライエントを募集することがおこなわれ、それに対して批判的なコメントが溢れたりして物議を醸している。
守秘義務や多重関係に関する職業倫理は古くから考えられてきて、そこに明確な正誤の線を引くことが難しいことが明らかになってきつつあるところへ、(表現の自由や匿名性の問題、伝播力の大きさなど)新しいSNSの波が襲ってさらにかき混ぜたといった具合である。SNS上で職業倫理について激しく議論していること自体が、われわれの仕事の倫理的な問題に触れていることさえあるのである。
こうも言えるかもしれない。「SNS上ではどのように振る舞えばよいのか(実名で行うか/専門的なコメントを行うかなど)」という表層的な問題と、「カウンセラーであるとはどういうことか」というより根源的な問題とがあって、それらがごちゃまぜになって、いったい自分が何について刺激されているのかわからなくなっているのだと。
ところで、村上春樹の初期の小説はよく「ディタッチメント」を特徴とすると言われる。ディタッチメントというのは「個」であるための距離感だと思う。つながり(アタッチメント)も大切だが、われわれはつながらないこと(ディタッチメント)も「個」として生きる上で重要なはずで、(村上春樹の小説がよく読まれたように)現代人はそこを一生懸命やってきたところがあった。当然それだけでは寂しくなるので、つながるツールとしてSNSが出てきて爆発的に広まった。ところが今度は、SNSはつながりすぎて、われわれが大事にしている「個」の距離感を破壊しているように見えるのである。
先に「私はLINEもやっていないし、(そのような形で)誰かとつながりたいと思わない」と述べたのは、アタッチメントとディタッチメントのバランスを取りたいと思っているのである。
そのようなことをふまえて、私が相談室のTwitter運用で気をつけていることは以下の点である。
まず、相談ケースのことを書かないというのは当たり前のことで、加えて心理学的な解説のようなことも書かない。過激な意見、議論などのリツイートも載せない。するとどうなるかというと、当たり障りのない花鳥風月のつぶやきのようなものばかりになる。ほとんど古今和歌集である。
これではSNSとして意味がないと言う人がいるかもしれないが、私はそう思わない。心理職が、実名であるなしにかかわらず、その職にある者としてSNSの発信をするなら、ユーザーである人たちにどう見えているだろうかということが何より重要である。ゆえに、私は(不特定多数の人たちではなく、ユーザーとなる可能性のある人たちへ向けて)自分がちゃんと顔の見える、わりと常識的な、日々の生活も生きている一人の人間ですよ、ということが伝わればよいと思っているのである。表現を変えると、あなたが「個」であるように私も「個」です、だからこのような場では決して侵入的にはなりません、という態度である。それは最初に述べたように、「カウンセリングとは何か」「カウンセラーであるとはどういうことか」というメッセージを(ある意味では)雄弁に伝えていると信じているのである。
もしSNSにおけるカウンセラーの倫理感覚についてコツのようなものがあるとすれば、「SNSでつながりすぎない」ということであろう。そして面接の中で深くつながるのである。このような逆説に入り込むことこそ心理職の真骨頂である。このことで過激な意見、不用意な批判、私的な勧誘など、いわゆるSNSで起きている倫理的な問題のかなりの部分は防げるのではないかというのが私見である。
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