【連載】明けない夜はない コロナ病棟の現場から(2)|最前線の看護師たちの声|渋谷敦志
パンデミックの始まりをブラジルで迎えた写真家の渋谷敦志さん。その経験を記した前回に続き、連載第2回目は、2020年4月にコロナ専用病棟を取材されての記録です。
2020年春のコロナ専用病棟
そんなわけで、ブラジルから帰国して16日後の4月14日、ぼくは東京の武蔵野市にある武蔵野赤十字病院へ向かった。自宅からの距離は7キロメートルほどなので、感染対策をかねて移動は自転車を使った。
武蔵野赤十字病院は武蔵野市や三鷹市など東京都のほぼ真ん中の地域をカバーする中核病院だ。職員は約1500人、病床は600床強。高度急性期病院として救急医療を担うほか、日本赤十字社として国際協力や災害医療にも力を入れている。また業界内では、毎年10人ほどの初期研修医募集に150人、多いときで300人もの応募が殺到する、若い医師が全国から集まる教育病院として、知る人ぞ知る病院でもある。
「あとで実際に見てもらえばと思いますが、第1波で病床、人、物資もひっ迫、職員の使命感でなんとか持ちこたえている状態です。このまま重症患者が増え続ければ、医療崩壊が起きてしまう瀬戸際にいます。とにかく重症者を減らしていく対策が急務です」
泉並木院長は限界に近づきつつある現場の状況を単刀直入に説明する。
心配されている状況はやはり現実なのか。
取材のしょっぱなから危機感が駆り立てられた。
武蔵野赤十字病院は、日本でもっとも早い段階からコロナ患者を受け入れてきた病院のひとつだ。1月31日に武漢からチャーター便で帰国した陽性者を迎えたのが始まりで、もともと感染症の指定医療機関ということで陰圧がきく個室が2つあり、武漢からの患者はそこに入院した。
その後、クラスター(感染者集団)が発生した大型クルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス号」から陽性患者が運ばれてくると、部屋が足りなくなり、一般病棟を新型コロナウイルス専用病棟(以下、コロナ病棟)に変えて対応するようになった。そこは20床あるので、最大20人までは受け入れられる想定だった。
ところが緊急事態宣言の直前、東京都からコロナ患者向けの病床数を倍の40床に増やしてほしいという要請がくる。さらに別の病棟をコロナ病棟にあてるしかなくなり、急きょ、入院中だった一般の患者に転院してもらうなどして、21床を新たに捻出した。
増床すれば当然、さらに人手が必要になる。急ぎでない手術を延期してもらい、整形外科や内科など他の診療科のスタッフにコロナ対応チームに加わってもらうなどして医療体制を立て直した。まさに病院総力戦でこの難局を乗り越えようという気構えだった。
しかし、感染者の増加は想像を上回る早さだった。増床したベッドは4月最初の土日で埋まった。他の一般病院でのコロナ患者受け入れが進まず、一部の病院に負担がどっと押し寄せていた。
「とにかく院内感染を起こさないよう、感染者とそうでない人が接触することがないように神経を使う。それが普段とはまったく違う大きな負担になっています」
副院長であり看護部長の若林稲美さんも、コロナ感染者の増加と症状の悪化のスピードは想像以上だったという。感染急拡大を受け、感染者と非感染者の区域を分ける「ゾーニング」を徹底する必要が出てきたが、病院の建物が古いこともあって、区分けは容易ではなかった。他の診療科の医師や感染管理室からいろんな意見が飛び交うあいだ、コロナ病棟のスタッフは対応でてんてこまいになっている。そんな混乱のさなかでも、新規の患者はどんどんやってきていた。
「いつも当たり前にできることができなくなって、これはもう災害だと思いました。ただ、厳しい状況ではあったが、人だけはいた。手術が3割ほど減っていたし、検診センターの人や研修に行くはずだった人の手があいていた」
看護師のトップとして、コロナ病棟にどの看護師が行くかをどう決めたのかたずねると、「決めごとがあったわけではなかったんですが、妊婦、高齢者との同居者、持病のある人は外そうと。あとは師長に人選をお願いした。個々でいろんな事情があるだろうから、無理はしないでと伝えた。でもね、何か役に立ちたいと経験のあるナースが出てきてくれるんですよ。そうすると後輩も見習うじゃないですか。行きますよって。心強いなって思いました」と若林さんは誇らしげに答えた。
災害同然の危機的状況にある中で、スタッフのモチベーションが高いのは想像以上だったが、想像以下だったのは医療資源の供給量だった。
「フェースシールドが全然ない。3Dプリンターを入手するのに職員を山梨に走らせた。それで部品をつくって、事務用品のクリアーファイルをとめている」といい、泉院長は自作のフェースシールドを装着して見せてくれた。
⾃作のフェースシールドを装着する泉並⽊院⻑
若林さんがつけていたマスクも、病院で普段使う不織布のサージカルマスクではなく、手術室で使う滅菌の布を切り、ホッチキスでゴムをつけた手づくりだった。そんなマスクを職員が手分けして夜な夜なつくっているという。感染した患者の対応にあたるとき以外は手づくりマスクを使って、医療用のマスクを節約したり、使い捨てにせず継続して使うなどして急場をしのぐ、そんなありさまだった。
町でマスクが手に入りにくいのはたしかだったが、コロナ患者に対応している病院ですら、医療者をウイルスから守る防護具の枯渇に直面している現状に、驚きを禁じえなかった。3月下旬にアメリカで医療用のガウンの在庫が尽きて、ビニールのゴミ袋で代用してコロナ患者の治療にあたっていた看護師が感染して亡くなったニュースを思い出した。日本もアメリカと同じようなことが起きようとしているのか。そう思うと、不安はますます大きくなった。
看取りに寄り添えないジレンマ
「災害」の概況を泉院長から一通り聞いたあと、1番館の2階にある救急救命センターのHCU(高度治療室)へ移動した。そこの5床を新型コロナの重症者専用に転用しているという。重篤のコロナ患者を受け入れるいわば「地域医療の砦」だが、もともとは感染症病棟でもなんでもなく、集中治療室に入るほど深刻ではないが、特別な治療やケアを必要とする患者を受け入れる病棟だった。
フロアは看護師が作業するナースステーションから病室がよく見えるオープンな設計だが、コロナ病棟がオープンでは話にならない。スタッフと感染者が行き来きするスペースに、半日ほどの突貫工事で感染防御壁を設置し 、通常勤務ができる清潔領域(ブルーゾーン )と、感染対策が必要な感染領域とを大きく分け隔てた。さらに壁の向こうの感染領域を、緩衝エリア(イエローゾーン)、防護具を脱衣する中間エリア(オレンジゾーン)、そしてコロナ患者が入院する病室(レッドゾーン)の4つに区分けするゾーニングを施した。
ブルーゾーンとイエローゾーンの境界の床に黄色いテープが張ってある。それを恐る恐るまたいで越境し、壁の向こう側を見た。すると、オレンジゾーンの廊下でスタッフ数人がストレッチャーを囲み、騒然とした雰囲気の中でなにやら作業をしている様子が目に飛び込んできた。実際に何をしているのかはそのときはわからなかったが、なんとなく不穏な感じがして、立ちすくむ。遠目に写真を撮りながら観察していると、スタッフがストレッチャーを押しながら、こちらに向かってきた。目の前を通り過ぎていくストレッチャーを追いかけるようにカメラを動かし、シャッターを切った。そのときストレッチャーの上に横たわる白い袋を視界に捉えた。
「ご遺体です。疑似症だったんですけどね」
すぐ隣にいた若林さんのつぶやきにどきりとした。コロナに感染しているかどうか確定する前にあっというまに亡くなったという。
「おそらくコロナに感染していないマイナス(陰性)の方だったと思いますが、疑いのままだと、陽性者として対応せざるをえないんです」
志村けんさんは入院中に一度も家族に面会できずに亡くなって、お骨になってから肉親のもとへ帰っていったというが、そんな悲劇を思い起こす現実にいきなり遭遇した。
これがコロナで死ぬということか。
その光景は胸に突き刺さった。頭がぐらぐらした。とっさに脳裏に浮かんだのは自分の親のことだった。白い袋の中に入っている人がもし自分の親だったらどうだろう。袋に入れられたまま、目の前にいるのに見ることも触れることもできず、共に過ごせたはずの最期の機会がそのまま失われてしまうとしたら。そんなさよならのない喪失を自分は受け入れることができるのだろうかと。
そう想像したとき、コロナというもののリアルなイメージが一気に迫ってきたのだ。
「悲しい病気なんです、コロナは」
コロナ禍の前からHCUに勤務する看護師の高橋かえでさんの、素朴だが、いつわりのない実感だ。
「最期に間に合わずに家族に会えなかったというのはこれまでもありましたけど、亡くなったあとも家族に面会できないまま、ご遺体を袋に入れるなんてことはなかった。4月はまだこの感染症自体がよくわかっていなくて、対応が追いつかず、最期の看取りの瞬間に家族に面会してもらえない経験を何度かして、なんとかできないのかって悔しい思いがずっとありました」
コロナ患者と面会をすることは感染防御の観点からは間違っているという人もいるかもしれない。それでも、感染リスクを最小限にして、スタッフと家族の両方を守りながら、いのちの分岐点に立つ人に寄り添う看護ができないだろうか。
そんなジレンマに、高橋さんだけはなく、出会った看護師全員が陥っていた。
若林さんはそれを看護のあり方の根本を揺るがす危機だという。
「コロナで看取りができないのでは、何のために看護師をやっているのかわからなくなる。これでは自分たちのアイデンティティが崩れてしまう」
コロナ禍のせいで、看護師自身が本来この仕事にあるはずの価値を実感できずにいる。その状況をほっておくと「看護師の気持ちが持たない」と、救命科の医師、原田尚重さんも当初から危惧を抱いていた。
「家族が肉親に会えない、それは家族だけでなく、ナースにとってもストレスの極み。看護師の気持ちも守らないといけない。そこは絶対、いくらコロナだろうがなんだろうがね。だから看護師長とも話して、いよいよ最期のときは会わせようって。みんなもそうだねって自然になった。医療者として当然亡くなるまで手を尽くす。でも、その先は医療の領域から人道の領域になる。家族に会えないまま荼毘にふされてしまうのは、コロナに拉致されるようなものなんです」
救命科の医師、原⽥尚重さん
コロナ禍によっていままでのようにいかなくなった「看取り」。未曾有の環境の中で、その限界をどう乗り越えていくのか。コロナ患者のゆるがせにできない最期の死に方、いや、最期の生き方をどのように支えていけばいいのか。
経験を積んできた医療者でもたやすく答えを見出せない難問だが、原田さんが言ったように、コロナ禍で向き合わざるをえなくなったこの命題は、医療の領域を越えた人道的な問いでもある。投げかけられているこの問いにどう対峙するかは、医療者ではない写真家のぼくにとっても大事な課題に思えた。
わからないことばかりだが、わからないものをわけて切り捨ててしまうのではなく、わからないまま抱えることの大切さこそ、これまでの経験で学んできたことだった。わかりえない何かを他人事として遠ざけるのではなく、「わからない」を起点 にして、そこから立ち上がってくる何かに自分の心を傾注させていく。そのためにまずすることは、現場でまだ言葉になっていない思いの糸をたぐり寄せ、結びあわせた 「わからない」を束にして共有すること。その「つながり」を足場にして、いまとこれからを他の誰かと共に考えていく。そんな想像の先に、コロナ前よりもう少し優しい世界が約束されていればいいのに、と願いながら。
そんなふうに気持ちを整えて、言葉にできるようになったのは少しあとのことであって、取材中は目の前の痛切な状況を見て、写真を撮り、ときおり漏れ聴こえてくる現場の声をすくいとることで精一杯だった。
このときは家族の面会も断っている非常時だ。感染リスクを高める写真家の立ち入りなんて言語道断と思っているスタッフもいたかもしれない。そんな中で撮影させてもらうのは申し訳ない気持ちでいっぱいだった。院長の許可があったとはいえ、限りある防護具を使わせてもらうのも心苦しかった。それでも受け入れてくれたのは、この感染症と向き合うことの現実を伝えてほしいという思いがスタッフにあったからだ。その思いに応答するためにも、与えられた時間内で自分の役目を果たさなければならなかった。
緊張や不安、うしろめたさなど、さまざまな感情を交錯させながら、イエローゾーンからレッドゾーンへと進む。そのとき、カメラを持つぼくの手は少し震えていた。
重症患者への変わらぬケア
レッドゾーンで出迎えてくれたのは、HCUでチームを牽引する看護師長の宮本加奈子さんだった。5人の重症患者が人工呼吸器でいのちをつないでいた。ベッドに1つ空きが出たばかりだが、それもすぐに埋まるという。
撮影はできるだけ短時間で終えなければならない。さっそく、PPEと呼ばれる個人防護具の適切な着方を教えてもらう。サージカルマスク、キャップの順に着けて、ビニールのガウンに手袋を二重にし、フェースシールドを装着する。海外メディアで爆発事故を起こした福島第一原発の内部に入るときのような防護具を着ている医療者を見ていた。それと比べて「思ったよりも軽装なんですね」と不安をこぼすと、「空気感染はしないといわれているので、マスクをし、接触しなければ大丈夫」と宮本さんはきっぱりと言う。
レッドゾーンの病室にカメラバッグは持ち込めない。ズームレンズをつけたミラーレスカメラを一台、手にとった。問題は動画だった。カメラの動画モードで撮るか、スマホのカメラで撮るか。撮った動画はその日の夜のNHKのニュース番組でさっそく使う予定なので、撮影後にすぐに送ってほしいと日本赤十字社・広報室の塚原さんに言われていた。そう考えると、帰宅して、取り込んで編集などしている時間はない。ぶっつけ本番で、カメラとスマホの二刀流でのぞむことにした。
フェースガード越しでは、iPhoneの顔認証機能が効かないので、画面のロックを解除するのに、ゴム手袋で画面タッチできるか確認した。左手にiPhone、右手にミラーレスカメラという両手が塞がった状態で、スマホのロックを解除したり、カメラのフォーカスの位置や露出を変えたりしなければならない。まるでボールや帽子などを投げ回すジャグリングのような状態になるが、練習する時間はなかった。
準備ができたところで、すぐ目の前の病室をのぞいた。ちょうど高齢の重症患者に看護師が二人一組でケアをしているところだった。「こんな感じの様子を撮らせてください」とお願いすると、すぐに宮本さんが二重扉に閉ざされた病室のほうへ招き、「絶対にどこにも触らないでね」と念を押して入れてくれた。病室にあるものはすべてペンキ塗りたてだと思え、そう自分に言い聞かせた。そして、看護師に「お邪魔します」と一言あいさつして撮影にとりかかった。
救命救急センターHCUに入院する患者をケアする看護師
(画像の一部を加工しています)
水色の防護服、紫の手袋、フェースガードを装着した看護師が2人、人工呼吸器をつける患者のたんを吸引するところだった。どこにも触れないように、すっとベッドサイドに位置取る。患者までは5、60センチしかない。看護師の表情と手技、カメラのモニターを交互に見ながら、患者の顔が写り込まないアングルを探し、シャッターを切る。続けてスマホのロックを右手の人差し指で解除し、同じアングルから動画を2、30秒撮影する。
「〇〇さん、いまからたんをとりますね〜」
明るい声が病室に響く。だが、患者からの返事はない。
「ちょっと痛いけど我慢してね」と言って患者の顔にぐっと近づき、呼吸器のチューブに吸引カテーテルを慎重に差し込む。意識のない患者がかすかに動いた。
「反応がある」
看護師は小さく声をあげた。その眼が一瞬、輝いた気がした。その瞬間を写真に撮って、思わずぼくも笑みがこぼれた。
それにしても、意識がはっきりしない患者に声をかけるのが、少し不思議な気がした。そのことを高橋さんはどう思っているか質問した。
「患者にとって心地いいケアをするときは特に意識しないが、たんの吸引は苦しいかもしれないし、体位変換のときは痛いかもしれないので、そういうときは声をかけ、つねに変化する意識レベルを診ている」という。
苦しいかもしれない。痛いかもしれない。そんな患者の目線で相手の意識に触れようとすることで、目には見えない何かを感じとる。そのことを高橋さんは「大事だと考えもせず、大事にしている」。
では、実際の看護師の目は患者のどこをどう見ているのだろう。それは見ることが仕事である写真家としても知りたいポイントだった。
「人工呼吸器の管がちゃんとした状態になっているかとか、モニター画面に表示される血液や呼吸の流量とか、脈拍や呼吸、体温など目に見えるものを観察する目もあるけど、患者を温かく見守る目や、患者の容体を気づかう目もあると思います」と高橋さん。患者の一番近くにいるものとして、痛みがあれば取れるようにする役割を担って仕事を続ける。それはコロナであってもなくても変わらない姿勢だという。
賞賛だけでは見失いかねないこと
コロナ下でもぶれない看護の仕事ぶりを聞くと、メディアでかまびすしく言われている「医療崩壊」の状態とは少しギャップがあるようにも感じたが、その言葉のニュアンスを現場の看護師はどう感じているのだろうか。
同じ病棟の看護師でも個人差はあるだろうが、医療崩壊という言葉が感染者や重症者の数字ときちっと当てはまるものではない。病院によっても状況は違うし、医療者を守るためにメディアが強い言葉をあえて使っている面もあるのではないか。
高橋さんの冷静な受け止めをうなずきながら聞いていると、「でも、医療崩壊じゃないけど、あのときは怖かったと思うときはありました」と話が一転する。それは病棟にかつて見たことのない数の人工呼吸器が並んだときだった。
「一時、たしか7台並んだんです。コロナの前はあっても2台とか。それでも大変なんですが、深刻な患者はICU(集中治療室)に診てもらっていた。それがコロナになり、HCU のスタッフ全員がICUでの経験があるわけではなかったので、経験値と押し寄せてきた重症さがマッチしていなかった。管理が難しい、人手がかかる、容体急変のスピードは早い、24時間交代で見守らないといけない。夜勤にリーダーで入ったとき、後輩がこんなにがんばってるのに自分なんだよって、瞬間的に無力感を感じたことがありました」
そんな窮地ともいえる状況で踏ん張れたのはどうしてなのか。
「ありきたりですけど」と前置きしながら、高橋さんは「隣でがんばっている同僚がいたから。同じ場所で同じ境遇で同じ感覚で一緒に働いている人がいたから」と語る。
とりわけ、看護師長の宮本さんの存在は大きかった。「やるっきゃないでしょ!」と周りの空気をポジティブにする宮本さんの明るさに、高橋さんも何度か救われた。夜勤でスタッフが減って、患者全体の状況を把握しきれず、「今日の夜勤は崩壊してる」と絶望感を覚える状況に追い詰められたこともある。そんなときはいつも、「朝になれば師長が来てくれる、だから太陽が昇るまでがんばろう」という気持ちを合言葉のように思い出し、同僚と励まし合うのだった。
感染防御壁に貼られた⾔葉
撮影を終えて病室を出た。緊張の汗でTシャツは濡れていた。「ドキドキしました」と待ってくれていた宮本さんに伝えると、「ここからが肝心ですから」と、使用済みの防護服の脱ぎ方を手取り足取り教えてもらう。防護服の適切な着方は大事だが、適切な脱ぎ方はもっと大事だった。ガウンと手袋を裏返しながら脱ぎ、表面に触れないように小さく丸めて捨てる。マスクとキャップも同様に外し、手指を念入りに消毒した。
「カメラはこれで拭いてください。壊れても私の給料じゃ買えないのでご自分で」と、宮本さんがアルコールをたっぷり含んだクロスを持ってきてくれた。「携帯もぜんぶですよ」と最後まで抜かりなかった。
看護師の宮本さんから防護服の脱ぎ⽅を指導してもらう著者
(写真提供:日本赤十字社)
重々しい病棟に響く宮本さんの快活な声を聞いていると、心身の力みが和らぎ、自然と笑顔が戻ってくる。どんな状況でも下を向くことなく、患者のために力を尽くしていることに頭が下がるばかりだ。エールを送りたくてやってきたつもりが、最後はなんだか自分のほうが元気づけられていた。
もっとほかのスタッフの話も聞きたかったが、このときは声をかけるのもためらわれるほどの忙しさだったのであきらめた。長居すれば業務の邪魔になる上に感染リスクも高まる。状況が落ち着いたら、またあらためて会いにこよう。そう思い直して病棟をあとにした。
HCUの看護師たち。右⼿前が⾼橋さん、そのうしろが宮本さん
第1波に見舞われていた最初の訪問で、コロナ病棟の最前線のスタッフの士気は高いと傍目には感じた。しかし、若林さんの目には、そのはりつめた状況は「ランナーズハイみたいなもの」と映っていて、それが続くのは無理があると危機感を募らせていた。
「ベッドサイドでがんばっている看護師を見てると心強いと思います。一方で、家族にすらそういう病棟で働いていることを言えない看護師もいた。でも、そのストレスを自分で自覚できない看護師もいるんです。あんまりがんばっているから。がんばっている自分に酔っているところもあったかもしれない。みんなでがんばって、この危機を乗り切るんだと」
看護部⻑の若林稲美さん
たしかに、ぼくが出会った看護師たちは、「患者をただ助けたい一心」で身を粉にして働いていた。コロナであろうがなかろうが、患者の治療にベストを尽くすのは医療者として当然。そういわんばかりの献身的な仕事ぶりを直に見ると、もとからあった敬意や憧れはますます大きく膨らむ。未知の病気に向き合う医療者の矜恃や最前線の高揚感に触れると、当然のように拍手やエールを送りたくもなる。
一方で、ちょっと待て、本当にそれでいいのかと相反する思いもある。医療や看護の仕事をエッセンシャルワークと賛美し、感謝の気持ちを伝える。それは、差別的な態度を向けるよりよっぽどいい。でも、現場の医療者たちに過度の負担を引き受けさせてしまっている現状から目を背けたまま、敬意や感謝を表すのは、結局のところ差別や無関心というコインの裏を表にひっくり返しただけに過ぎないのではないか。このままでは、医療崩壊を食い止めるという大きな目的のために、一部の医療者に犠牲を強いる状況が続くばかりで、コロナ禍によって可視化されている矛盾や課題はまた見失われてしまうのではないか。
そんな個人的な煩悶までは写真や動画では伝わらないだろうと思いながら、NHKに動画のデータを送ったあと、玉川上水の堤に沿った道を自転車で走って家路についた。そのとき目にした雑木林は行きしなに見たのとは少し違う、どこか無常な気配があった。
⽟川上⽔の雑⽊林
⇒明けない夜はない コロナ病棟の現場から(3)|それでも、寄り添いたい|渋谷敦志
(本稿は、日本赤十字社と武蔵野赤十字病院の協力と理解によって成り立ったものですが、文責は筆者にあり、団体や病院の考えを代表するものではありません)
渋谷 敦志(しぶや あつし)
1975年、大阪生まれ。立命館大学産業社会学部、英国London College of Printing卒業。高校生の時に一ノ瀬泰造の本に出合い、報道写真家を志す。大学在学中に1年間、ブラジルの法律事務所で働きながら本格的に写真を撮り始める。大学卒業直後、ホームレス問題を取材したルポで国境なき医師団主催1999年MSFフォトジャーナリスト賞を受賞。それをきっかけにアフリカ、アジアへの取材を始める。著書に『まなざしが出会う場所へ——越境する写真家として生きる』(新泉社)、『回帰するブラジル』(瀬戸内人)、『希望のダンス——エイズで親をなくしたウガンダの子どもたち』(学研教育出版)。共著に『ファインダー越しの 3.11』(原書房)、『みんなたいせつ——世界人権宣言の絵本』(岩崎書店)、『今日という日を摘み取れ』(サウダージ・ブックス)など。JPS展金賞、視点賞などを受賞。