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宮崎駿「君たちは、どう生きるか?」と「バンプのカルマ」と「ソクラテス。」
今回の宮崎駿作品は、
「なにもしないけど、やったんだ」
ってとこだと思う。
それを感じとれるのは、
知性でも教養でもない。
その視点で受け取る人が、
その結論を持っただけ。
論理をもって、世界を条件づけ、
その視点で理解しただけ。
本質は、素直に、識らずに、
理解されると思う
老子の道(タオ)と
同じようなものだと思う。
知者が、理性が、
分解して理解できるものではない。
分解して、ロジックの
点と点を繋いで、
始点と結論をつないで
「はいこれがそうです」
ってしまいには出来ない。
そうではない、
まさにこの問いかけが、
素直に、無意識で行われたこと
学者も、知性も、
老子を分解して理解できる
と思ってる。
違うとしたらどうだろう?
その延長線上に無いと。
なぜなら、知者と、理解者が
立脚されたうえで(ありき)の「捉え」
になるから。
老子で言えば、
知者も、理解者の立脚も
とってはならない。
だから、知性には難しい。
みんなが素直に自分で
感じとった部分が大事っていう。
今回の映画は、
「なにが行われたか、わからない」
っていうところが大事だと思う。
ロジック的結論には、
それ自身の視点という、
枠と限界を持つ。
無意識でもいい、
フィーリングの部分だということ。
人生ってなんですか?
青春ってなんですか?って
そこに味わいがあるじゃない
当事者としての。
それは、素直に、
一番奥が感じたもの。
それぞれの答え。
魂色みたいな。
だから、それぞれの色、
多様な視点が、
奥底で無自覚でもいいから、
吹いた風。
その風の色。
その風の色がどうだと言えない。
言えないからこそ、奥ゆかしい。
奥ゆかしいから越えている。
「越えている」
を捉えることはできない。
だけど、それぞれが深いところで
揺らぎ、とらへる
人々が、時代と、肉体と、思考と、
同一化させてきた枠。
もちろんそうだという枠。
ほとんど無自覚に、
そして、それが
「私」として機能してきた。
自動的に。
それが、「私」になった。
その「私」となったものが、
地球に不具合を起こしてるかもしれない。
この枠への挑戦にも見える
しかし、
この枠に「ゆらぎ」をきかせ、
何か良き方向に進ませるというのなら、
という部分で、
「よりよい仕事」をしよう
という行いがあったかもしれない。
それは、それぞれに問い、
それぞれの純粋で素直な部分が
奥底で捉えるもの。
ソクラテスの仕事に似てる。
ソクラテスの仕事は、
おそらく、一般的には解されない。
それは、存在のおしもどしに似てる。
というか、押し戻すというか
存在の来た場所。
赤ん坊として、
掴んだ後天的なものが、
いまの「私」となり、
それは「周り」との差によって
視座を取った。
バンプのカルマの歌みたいに。
しかし、時代が提供する衣装が
不具合をもたらすのなら、
枠に目を向けるべきではと
ソクラテスは、おそらく、
場を越えた「気づき」へ
回帰したのではないか。
そして、人々を、
同じように、無垢な回帰へと
方向づけたのではないか。
そんなことわからなくても、
情熱の最極点では、
なぜかそれが行われる
おそらく、
自己がそのテリトリーを
越えていくから
試行錯誤から放たれた
「なにか」は、なにかこう
素直な場合、
私たちの奥深くでの自問になる。
時間を経てきいてくる。
知性がやる、
あたりをつけた
即時のロジック的、
結論ではない。
それぞれの人生にかんする
練り上げてく、これから。
宮崎駿監督は、
「なにか」やったんだろう。
でも、なにもやらなかった。
わからない。
最初は、純粋だった気がする。
映画も純粋さがテーマだった。
それから、世界に降り立つと、
近場の思想を取り込み自分とした
ピュアさを追い求めるって、
やっぱ辛えわって
監督は思ったのかもしれない
でもさ、覚悟してやって来たんだよ、と。
(FF15の主人公みたいに。)
大叔父さまが、宮崎駿さんに見えたし、
FF15の主人公にも見えないこともない。
対世界に対して、覚悟して
仕事してきたはずなんだよ。
それをさ、たくそうとしてるのをさ
見たらさ、なんか泣けたわ。
1人で頑張って来たんやと。
作品を通して、
伝えたかったはずなんだよ
伝わんなくてさ、
それでもさ、
伝えたかったんだと思う
世界を維持してたこと
もがきにもがいて作品を
ふかんして眺めた時に
自分の中では
純粋に取り組んだ作品で
世界を維持していた、というか、
より良くしようとしてたこと。
それを、託そうとしたんだよ。
でもそこでさ、とまらなかったんだよ。
だから、新しい自分なら
どう受け取るかを探究したのかも
この、全作品が無力だった
かもしれない
って思ったところのさ、
尊さというかさ、
真剣さというかさ、凄いよね。
託すかどうかさえ
吟味して、誠実な仕事だったんだと思う
個人的には、その最極点での
無のはたらきの発動だとも思う
存在の真芯で
それぞれに消化されるのかも
世界をより良くしたい
っていう純粋な部分は、大事だし、
また、世界観を否定することでも
ペリカンは解放されるわけで
その両側をまるっともった
型なき型に響くもの
これに注目していきたいし、
まさにこの言葉に
回帰するような気がする
君たちはどう生きるか?
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