塔3月号 新樹集 大森静佳さんの歌を読む

昨日(2021/3/27)の塔の「百葉集・新樹集を読む会」で大森静佳さんの  歌が話題になった。
昨日の議論を経て、なんとなくの感覚で味わうだけではなく言葉に定着させたいと考えた。そうすることで、さらに理解や読みを深めたい。
以下に大森さんの歌を読んでの感想を書く。

寝室の埃を見つめているうちに寄り目になった、みたいな秋だ

昨日の会での議論となった歌。
歌にあらわれる身体の時間性と作中主体そのものが秋になっていくようなその感覚がとても面白い。
寄り目になるのは微視的に対象に近づくうちに身体的な時間と秋という言葉の持つ時間性が重なって、いつの間にかわたしは秋になったというように読んだ。比喩的に読むなら擬人化ではなく秋がわたし化している。
そして比喩の対象となっているのが身体の持つ時間性がとても面白い。

にわたみず跨ぐ一瞬あずけたる影のしばらくつめたいままの

にわたみずに映る影は自分の影、自分の影を一瞬だけ手放すのである。
それは自分自身の存在の一部をあずけること。
自分という存在から切り離されたものは自分ではなくなる。
にわたみずを跨ぎ終わればまた自分のもとへ戻ってくるが
しばらくは私でないものが私としてあるようで冷たく感じている
それが嫌だとかという感情はなく、その冷たさを見つめるわたしがいる。
そして、その冥界のような冷たさを自分に触れることで自分という存在を
感じるようだ。

饒舌な眉だったこと 角砂糖の壺にちいさなトングを挿して

眉しか見ていない。相手と向き合いながら唇や鼻の穴や目ではなくて眉。
だからほぼ相手の顔を見ていない。眉だけに集中している。
そしてその眉が饒舌であったと言っている。眉の人。
角砂糖の壺にちいさなトングを挿すということは砂糖をいくつか取り、
目の前の飲みもの(コーヒー・)にいれたのであろう。苦味を抑えるために。一字空けの前の2句目までのできごとは決して心地いい時間ではなかっただろう。ちいさなトングに自身を仮託しているようである。あるべき場所に収める。あきらめや寂しさをおさめるように。

血管の林がしずかその奥に呼べば崩れる青岸渡寺よ

この一連の中で一番好きなうたである。                「青岸渡寺」から呼び出される那智の滝の水とその全体の景が身体に取り込まれる。意味的な象徴としての「青岸渡寺」が何かという読みをしてしまうと間違うような気がする。
が、「青岸渡寺」という場所につながる宗教的、文学的な時空間の厚みに身体を重ねている。そうやって、逆にそこにうたわれる存在の輪郭がはっきりする。

高低差はげしき墓地にきみといて今年はじめての、そのときの雪

「高低差はげしき墓地」という言葉の選択に注目した。
ふたりは高いところにいて墓地全体をを俯瞰している。遥か下のほうまで墓石がならぶそこに雪が降りはじめる。それが今年はじめての雪。
「そのときの雪」とあるから4句目までの景をさらに後の時間から見渡している。「はげきし」という言葉が過ぎた時間を通じて響く

もう誰にも会えないような気がしてる視力の果てに冬星冴えて

ふと見渡せばだれもいない。消えてしまったのではなく、「視力の果て」に
冬星は冴えている。わたしはここに冷え冷えとした場所に残されている。
が、このうたはその事実を完全に悲嘆しているのではないようだ。
「気がしてる」という語の中に哀しみや寂しさを持ちながらそこに立ち続けることを受け入れている。
三首目の「饒舌な眉~」にはまだ相手の存在の空気感のようなものがあったが、このうたにはすでに離れたしまったものの冷たさがある。時間の経過と空間の隔たりをもとに作中主体の孤独を歌っている。


秋から冬にかけての一連。
その季節の移り変わりは身体の時間の流れとリンクしているようだ。
凝視している。目だけではなく身体全体が目のようで。
そうしてその感覚を言葉をインターフェースに拡大して
自身をとりまく世界全体をわたしの中に取り込んでいく。
しかし、そのとき世界と一体化するのではなく、そこに
わたしとわたしの感じる世界との差異を表している。
そうすることでわたしという存在が内側と外側から立ち上がってくる。

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