歌集『胸像』髙山葉月/著を読む
情熱的な装丁。
緑のカバーの中央に花の蔓がハートにあしらわれ
そこにハイヒールの(きっと9㎝)の女性が横向きに腰掛けつつ林檎を一口かじる。
作者がアルゼンチンタンゴのダンサー(素晴らしい経歴を持つ)ということを作者略歴を見て知った。
この歌集には、略歴のアルゼンチンへのダンス留学の歌やダンスにまつわる歌も歌われている。
アルゼンチンに留学されたのは魚が遡上するほどの過去のようだが、
今見たように景が生き生きと表現されている。
そしてアルゼンチンタンゴをうたった歌は身体性が精神性に重なって作者独自の表現を生み出している。
おそらく留学の歌もアルゼンチンタンゴというバックボーンがあることでクリアな景が表現されているのだろう。
さて、歌集によい歌はたくさんあるのだがその中でも個人的に好きな歌を十首感想を書く。
留学したアルゼンチン(ブエノスアイレス)をうたっている。
「ジャカランダ」というのは南米原産の春に紫色の花を咲かせる樹木である。(ネットで調べた)日本でいうと桜のような感じだろうか。
南半球なので10月はアルゼンチンの春から夏にかけての季節。
「百反の絹を降らせば」は正しく読み取れていないが、空から真っ白な絹の布が降りきてそれがジャカランダ色に染められたタンゴのドレスになるようなそういうイメージを持った。
留学中の景を思い出してうたっている。「自転車を河馬がこいでる」という表現に作者が懐かしく思い返しながら歌をつくっている気持ちが込められている
手動式エレベータは昔、梅田の旧毎日新聞社ビルに見たようなのをイメージした。エレベータの扉の開け閉めを自らの手で行うもの。
(停止起動も自分がレバーでやるのであれば難易度は高い)
それに慣れる頃には異国での生活にも慣れて挨拶のキスもうまくできるようになったと、さりげなく生活の時間がうたわれている。
作者がタンゴをも主題にする歌はどれも恰好いい。
「九センチメートル」という数詞と「タンゴシューズ」という名詞に
アルゼンチンタンゴの身体性が呼び起こされて、「支配」という固い言葉が官能的な表現に変わる。
この歌は次にあげる歌と並んで好きな歌である。
「柔らかく男の背中踏むごとく床を踏みこむ」踊る人だからこその表現。
もしかするとそう教えられているのかもしれない。そうとも思える普遍的な言葉。だからこそ、五句目はすっとしていたほうがよかったかも知れないし、いや、「熱(ほ)めきたつ脚」だから抑えきれない情熱が込められていることも読める。
足首のクローズアップ。
3句目に「はたかれて」という俗な表現が使われているが4句目の「揺らがない軸」につながることで身体の触感を増すようである。「細くなりゆく」という結句がまるで一本の張り詰めた鉄線のようなイメージを呼び起こす。
上句がまるごと比喩。ギターリストがホセでフラメンコギターが
「死際のカルメン」という音の場所にステップを踏むダンサーが見える。
初句二句の大胆な描写。でも「友の背」なのである。
そして背中に青い三日月のタトゥーが見えるシュチエーションは、
互いに踊っているのであろうか。憎しみだけではない感情。
花束は真紅の薔薇。そんな感じがする。ピアソラの音が百万ボルトの
電流となり身体に流れれば燃えるように激しく踊るしかないだろう。
ファムファタールが魔女=栄螺のごとくにあぶられるそういう身に憧れるという。栄螺は食べられるイメージと重なって官能さを増す歌。
入浴剤だからあたりまえに湯に溶けるのだが、その溶けてゆく時間の中で
金のラメが手の平に張り付いて生命線の上で光って見えるということだろう。そこにすがすがしくもある生き方への肯定感を読む。
ただ、全肯定ではなく、その輝きは洗い流せば消えてなくなることも
知っていると前提の中での肯定である。
好きな歌を選び、感想を書いた。
相当に私自身の偏りのある選にも思うが
(だいたい選んだ歌に歌集の題となっている連作「胸像」のうたがまったく入っていない)
それはそれでよいと思う。