『虹を見つける達人』逢坂みずき/著 を読む
編年体で作られた歌集であろう。
解説にもあるがみずみずしさを感じるまぶしい歌集である。
そのまぶしさはうたわれている景や心が人の生きる中で、
たぶん、一番、変化の激しい時間だからであろう。
その瞬間を切り取った歌が魅力的である。
好きな歌がたくさんあった。
その中でさらに一首ずつで印象に残った歌の感想を書く。
「だれにでもやさしくできるおとなになる」ときどき封筒より出して読む P12
この歌はいくつかの歌が連作のようにつながっている最後の歌である。
他の歌「だれにでもやさしくできる」を否定的な捉え方をしている。
しかし、この歌はその時間をくぐって、「だれにでもやさしくできる」を
さらにそれをかつて書いたわたしを肯定し見つめなおす歌となっている。
ずっと子供の頃に書いたこの言葉の紙を彼女は捨てずに取っている。
「ときどき」という言葉がそこにつらなる3つの時間をつなげている。
「だれにでもやさしくできるおとなになる」マジックペンの哀しきひらがな
だれにでもやさしくしなくていいんだよ 過去への手紙は届けれられない
おまへは何になる気なんだと父が言ふ何かにならねばならぬのか、われは
オーオオーオオオーオオオーオオオー東北の球児みんながんばれ P26
応援の心の声が聞こえる上句。シンプルな歌のつくりであるが
だからこそ、みな応援されている気持ちになる。
わたしたちはみな古里を離れたり一人は勝手にカメラマンになつて P46
作者と作中主体が近いからこそ、具体が読むものの心に届く。
「勝手にカメラマンになって」の「勝手に」に歌の思いが乗っている。
だれか一緒に暮らしませんかわたくしは虹を見つける達人だから P54
「だれか」だからは具体的な人を言っているのではない。自分以外の誰か。かすかな寂しさがある。それはわかってほしいという気持ちも見える。わたしは知っている。一般的な社会基準とは違うところ気づかないところに美しいものがひっそりとあることを。そして、わたしはそれを見ている。いっしょに見ることのできる誰かと暮らしたいと読める。
歌集の表題にもなっている「虹を見つける達人」がとても魅力的なフレーズである。
東京の夜景の中で泣いてゐたあれはがんばれる人の光だ P58
歌は過去形の歌。そう思ったときのことを歌にしている。
「あれはがんばれる人の光だ」とは今も思っているであろう。
けれど、この歌をうたった今の時点では、東京の夜景の中に
がんばれない私であったことを否定するのではないように見えるのである。
容赦なく私は女として生きる霧立つ朝を霜降る夜を P91
この歌のある「容赦なく生きる」の連が好きである。
検診や婚活パーティなどの景が歌われて、一連の最後に置かれたこの歌は
わたし自身を受けて立つ決意のようである。
が、そう生きることはある種の儀式やシチュエーションが必要であって、だから下句のような大げさな諧謔的ともいえる表現をしているのだと思う。
コピー機の不調について言ふ人のぴろぴろむぎゆうとふオノマトペ P93
春だ春だ春だ春だ春だ街ぢゆうポップコーンのにほひ P100
読み手が楽しくなる。ということはきっと作者も楽しんでいるのだろう。
実景、実体験につながる歌なのでそこには読み手に届く面白さのバックボーンがある。
でも今は急いでいるから黙つてて戦争のことは大事だけれど P108
この一首だけだと身も蓋もない歌になる。しかし、この歌集、この連を読めばそうでないことがわかる。同じ連に以下の歌がある。
ふるさとのくねくね道の一番のカーブは戦没者慰霊碑辺り P109
この連にはわたしとわたしの祖父が登場する。
だから、ここで戦争のことを話しているのは祖父なのであろう。
今という時間と戦争という歴史が祖父を通じて生活に現れる。
いつキスをすればいいのか知らなくて参考にする相撲の立合 P117
いや、まあ、そうなのか。がつんという音がしそうで。「キス」との対比がいい
ばあちやんが使へと言つて持つてくるベージュの下着ごめん要らない P133
暗闇に百合のにほひが満ちてゐた祖母の畳の部屋に眠れば P136
「ところてん」の一連にある歌。一首目はユーモアのあるシチュエーションにわたしからのばあちゃんへの愛情が溢れている。読み手のわたしたちにとっても祖母は特別な存在である。その感覚が読み手の心に共感を呼ぶ。
そしてこの歌は現在形であるが、同じ連にある二首目の歌から、もう近くに祖母はいないことがわかる。作中のわたしは「百合のにほひが満ちていた」祖母の部屋に眠る。ふたつの歌の対比によって優しさと悲しさがうたの中からたちあがってくる。
へそといふ器官が一生消えぬことうれしくてたまに掃除してやる P138
すきな歌。へそはもともと母と(他者と)つなかっていたしるしだから。
外を向いている。そのことをうれしいという。うたに身体感覚があり、
「掃除してやる」とういう普通の言葉で慈しむ。
ぢいちやんが可笑しい言ひ間違ひをするでもばあちやんは死んでしまつた P146
つれあいの祖父が一番悲しいのだ。「可笑しい言ひ間違ひをする」というところに悲しさが共有される。この連はすべての歌が「でもばあちやんは死んでしまつた」という下句で作られて、哀しみを重ねる。
ばあちやんがなるなら星、花、風のどれ どこにでもゐてどこにもゐない P148
挽歌。知っているもの触れるものみなに祖母を感じる。でもいないことの哀しみを歌う。
祖母の死でこの歌集は締めくくられる。悲しみの中で終わるように見えて、
しかし、だからこそ歌集は巻頭のに次の歌を置いているのだろう。
夏の空 そりやわたしだつて生きてゐる足の甲まで汗をかいてる P3
歌集の終わりは悲しみだが、歌集全体を流れるのは夏空を見上げて、
足の甲の汗までを感じながら「わたし」は生きているということである。
だからこの歌は表題になっている歌とリンクする。
だれか一緒に暮らしませんかわたくしは虹を見つける達人だから
生きているということを肯定する力を与えてくれる歌集である。