青年将校―安藤輝三の二・二六事件 その2
第三章 動乱の昭和
一.激変する内外
半年間の隊付き勤務を終えた安藤は士官学校の本科に進み、大正十五年にはふたたび同連隊へとかえってきた。年号が大正から昭和に変わる年ではあるが、大正天皇の崩御は十二月であり、昭和元年は一ヶ月足らずで終わっている。本格的な昭和の始まりは翌昭和二年からと言っていだろう。
が、翌昭和三年には早速きな臭い事件が起きている。満州地方の有力な軍閥で、時の田中義一首相とも親しかった張作霖が関東軍の河本大作大佐によって爆殺されてしまったのである。
河本大佐はわざわざ偽装工作までしてこれを中国側の反抗に見せかけようとしたが、当初より日本軍の謀略であることが疑われた。田中首相は事件解決に全力を尽くすことを昭和天皇に予約束したにも拘わらず、結局は河本大佐を行政処分で穏便に済ませることになり、結果天皇の怒りをかって辞職する。
しかし、張作霖の殺害はほんの入り口に過ぎなかった。昭和六年には再び満州において関東軍の石原莞爾中佐らの策謀によって柳条湖事件が引き起こされ、関東軍は張作霖の後を継いだ子息張学良を駆逐し、満州を手中に収める。
これらに呼応するかのように、国内でもクーデター騒ぎやテロが相次いだ。満州事変と同年には陸軍の一部将校によるクーデター計画が発覚(三月事件、十月事件)、昭和七年には海軍の将校らが主体となって犬養毅首相を暗殺する五・一五事件が発生する。事件の主体は海軍将校だが、陸軍からも士官候補生が参加しており、安藤らとも親交があり、共に国家革新を論じ合う仲であった。事件の起こった翌十六日、当時中尉になっていた安藤は訓練のために出てきた部下の候補生らに語りかけた。
「諸君は、すでに新聞やラジオで、一昨日の事件に関して知っていることと思う。
実はこのことは前もって予測されていたことであった。我々にも参加を求められていたのだ。しかし、私は時期尚早であり、陸軍関係同志の結束が出来ていないという理由で、参加を拒否すると同時に、暴発を阻止するために出来るだけの説得を行った。
それも空しく、海軍の一部中・少尉が決起し、在学中の士官候補生までが、学校を跳びだして暴走してしまった。まことに残念で堪らない。
今日は、今回の事件に関連して、自分の考えを話しておきたいと思う。
その前に、昭和維新の尊い人柱となられた犬養首相の霊に対して黙祷を捧げたい。
首相は腐敗堕落した政党政治家の中あって、数少ない清貧気骨の士であったことだけは、知っておいてほしい」
注目すべきは、安藤が犬養首相を「清貧気骨の士」と讃えていることである。普通なら自分の同志が標的とした人物であるのだから、その罪悪を鳴らしても不思議は無いような気がする。しかし安藤は、例え考えや立場を異にする人物であっても全否定することはなく、しっかりとその器を認めるだけの見識と冷静さを備えていた。時期尚早を唱えている点も、安藤が単なる暴力主義者ではなく、状況を冷静に分析できる人間であることを表している。
同時に、安藤は訓示で現実への厳しい批判も行っている。
(前略)
諸君は、自分の意志と親の了解に基づいて、今後長く陸軍の俸禄を食むことを決意した。然し、君らの所属する中隊の戦友で少なからぬものの家庭が、掛けがえのない働き手を国にとられて、困り果てているのだ。そして、その戦友たちは月々支給される僅かな手当のほとんどを、家への送金にまわしている。
それでも足らずに、若い姉や妹たちが、次々と遊里に身を売られていく現状である。
それなのに、権力の座にある政治家、役人高級軍人たちの大半は、敢えてその現実から目をそらし、自己の私利私欲にのみ走って、庶民の窮状を拱手傍観している有様だ。
果たしてこんなことでいいのか!
(後略)
眼前に激しく咆哮する青年将校の熱血を見る思いがする。安藤の人を憎むことのない器の大きさと、青年らしい正義感とは矛盾することなく一人の人格の中に併存していた。
それにしても、昭和が始まってまだ間もないうちに、内外で様々な事件が起きている。後に起こる二・二六事件はこれら様々な事件の総決算とも言うべきものであり、安藤もこれらの事件の延長線上にいた、ということができる。では、これらの事件、そして二・二六事件の起きる原因はどこにあったのだろうか。
二.「革新」「改造」が叫ばれる理由
革新や国家の改造が叫ばれるようになった背景の一つに、大正期以降の軍縮への不満が挙げられる。特に、ワシントン軍縮条約の後に結ばれたロンドン海軍軍縮条約(昭和五年)は大きな騒動を巻き起こした。ワシントン条約が主力艦(戦艦)の制限(比率は米英が五づつに対して日本は三)を設けたのに対し、ロンドン条約では補助艦艇(巡洋艦など)を英米十に対し日本の比率を七とするものであったが、同条約への賛成(条約派)と反対(艦隊派)は帝国海軍を二分する事態となった。
一般的に受けの良かったのは強硬な艦隊派で、条約を受け入れて軍備を制限しようとする条約派はかなりの批判に曝されねばならなかった。軍事参議官の岡田啓介(海軍大将)は条約賛成派として動いていたが、横須賀の料亭に飾ってある岡田の書いた額が艦隊派を支持する若い士官らによって池に放り込まれる、というようなことも起きている 。
それだけならまだいいが、問題はこの条約について「統帥権独立」が持ち出されたことである。実際に、艦隊派のトップである軍令部長の加藤寛治(大将)、次長の末次信正らが態度を硬化させたのは昭和四年四月に政友会が倒閣の手段として「統帥権干犯」を持ち出してからのことであった 。
統帥権とは簡単に言えば「軍の統帥は天皇に直属する大権の一つ」であり、政府が条約によって軍備を制限しようとするのはこの「神聖な大権」を干犯しようとするものである、というのが問題とされた。条約締結時の首相は立憲民政党の浜口雄幸だが、このロンドン条約締結を「国辱」とみなした右翼青年佐郷屋留雄によって東京駅のホームで銃撃をされ、やがてその傷がもとで死去した。
また、先に述べたように「無用の長物」扱いへの不満も軍人たちの現状変革への意識を刺激していた。実際、安藤らの同志(決起には不参加)である末松太平は、大正時代の軍人への世間の冷たい視線についてこう回想する。
「関東大震災の活躍で、いくらか評判はよくなったものの、当時の軍人は今の自衛隊(※本書の初版は一九六三年)同様、税金泥棒扱いされていた。現に軍縮がその証拠だった」
その後の歴史を知っている現代からは考えにくいが、大正期の軍人の肩身の狭さは大変なものだったようだ。
革新熱を高めたもうひとつの理由は、慢性化した不況と農村の疲弊であった。特に東北地方の農村の疲弊は酷く、昭和九年には大飢饉によって東北六県で三万四千人におよぶ欠食児童が出る事態となった 。食事も満足にできない農村の人々は田畑を売り払い、果ては娘を人買いに売ってまで飢えをしのがなければならなかった。軍人たちはこうした貧困農家の子弟らを部下の兵士として持つことで、一層現実社会を変革する必要性を感じていった。事件参加者の一人、麦屋清済少尉は、事件を起こした青年将校の心情を代弁している。
〈これでは日本は滅亡する、一刻も早く国民生活の安定化をはかることが急務だ。現下の国政は社会態勢の改善以外にない。これを早急にしかも円滑に処理するには国体真姿の顕現であり、大御心による政治以外にはその打開策はない。即ち天皇に政治大権、軍制大権、経済大権等枢要の大権を奉還して住よい国造りをすることである。満州国の充実政策も、これなら実施可能と思われる。
明治維新は日本の血の中から生まれた。昭和維新も正にそれと同じである〉
すなわち、天皇親政という理想を掲げ、陛下の周りにいる「君側の奸」を討つことで昭和維新を成し遂げる―。これが、二・二六事件の終局の目的であった。
もちろん、いわゆる「国家改造」「革新」を目指した青年将校等は大勢おり、総てが一律に同じ考え方をしていた訳では無い。事件に参加こそしなかったが、安藤等の同志であった大蔵栄一大尉は自分が革新運動へ参加した理由は貧困家庭への同情も勿論あるが、それよりは「権力への反抗の闘魂」が大きかった、と述べている 。
三.中隊長としての安藤
しかし、安藤においてはやはり農村の貧窮、ということが事件参加の根本にあったようだ。安藤は週一回行われる中隊長の訓話のにおいて黒板に太陽と黒雲と作物を書き、
「いくら空の上に太陽が照っていても、その下に黒雲が遮っている限り、地上の作物は生長しない。即ち国民が平穏な生活を営み、国が栄えてゆくためには、どうしてもこの黒雲を取り除かなければならないのだ。これが、昭和維新というものである・・・・・・」
と説明した 。太陽は天皇、作物は国民、そして黒雲はいわゆる重臣や財閥と言った人々、つまり「君側の奸」である。安藤にとって、紛れもなく天皇は国民を照らす太陽であり、その太陽の光が届かないのは、側近等が「黒雲」として陛下の眼前を遮っているからに他ならなかった。
こうした思いは事件に参加した他の将校らも多かれ少なかれ抱いていたのであろうが、安藤は特にこの重いが強かったのではないだろうか。というのも、彼は人一倍部下思いだったからである。事件の直前、二月二十三日の消灯後のことであるが、安藤は部下の増田喬一等兵を呼び出し、こんな話をした。
「増田、お前は一選抜で上等兵になれず悲観しているだろうが、階級など問題にするな、一生懸命に軍務に精励すればそれでよいのではないか」
「ハイ」
「気を落とさず頑張れよ」
増田氏はこの時ことを
「大尉は弟をさとすような口調で暖かく励ましてくれた。中隊長が一等兵を呼んでこのようにお話されることは滅多にないことで、それ程までに私のことを心配してくれる安藤大尉に私は心から敬服せずにはいられなかった」
と回想している 。この思いは、増田一等兵だけのものではなかった。同じく安藤の中隊で、昭和十一年一月に入隊した大熊米吉二等兵も安藤への敬慕の思いを残している。
「昭和十一年一月十日、現役兵として第六中隊に入隊以後、私の最も感銘を受けたことは、中隊長安藤大尉の兵隊を大事にすることであった。中隊長の心が暖かいというのか、面倒見がいいのか右も左も分からない我々初年兵が、ごく短い期間のうちに中隊長と心が通じ合い、しかも全員が尊敬の心で接するようになってしまったのである。実に不思議といえば不思議だが恐らく何かひきつけられるものがあったのであろう」 。
入隊して間もない兵士すら、安藤には心服した。安藤が上辺だけ飾る人間であれば、こうはいかないだろう。給料のほとんどを貧しい兵士の家庭のために使ってしまう 安藤輝三という人物にとって、貧困の中にあっても身命を国家に捧げる兵士らは、まさしく弟のような存在に違いなかった。
第四章 決起までの道程
一.北一輝と西田税
二・二六事件を語る際に忘れてはならないのは北一輝と西田税である。両者は決起に直接参加した訳ではなく、北に到っては軍人の経験すらなかったが、この決起には特に思想的影響力を強く及ぼしていた。
北一輝の本名は輝次郎、明治十六年佐渡島の生まれである。北は早くから独特の思想を持っており、現在まで彼の評伝や思想の解説は無数に出ている。大学にゆかず、学歴と言えば早稲田の聴講生としての経歴があるぐらいの北であるが、その思想的な立ち位置は近代日本史の中でも他の追随を許さない、非常に独自のものがある。
そのデビューはわずか二十四歳の時に著した『国体論及び純正社会主義』で、北はこの著作で明治期以降の天皇制や国家に胚胎する矛盾を指摘し、発禁処分を受けている 。北は現在一般的には右翼思想家とされているが、実際はかなり複雑な立ち位置にあった。安藤らの同志大蔵栄一は北からこんな話を聞かされている。
「幸徳(秋水)はわたしの本(『国体論及び純正社会主義』)を読み違えてあんなことをしでかしてしまった。あのとき(大逆事件)、わたしは死刑のグループに入れられていた。だが明治天皇は、多すぎると仰せられて、お許しにならなかった。次々に死刑の人数が削られていって、、わたしは何回目かに死刑からはずされてた。それからわたしは、仏間に明治天皇の肖像画を掲げて毎日拝んでいる」
大逆事件とは、明治天皇暗殺を企てたとして幸徳秋水ら十二名が死刑となった事件である。事件が起きたのは明治四十四年で、北の著作はすでに出版されていた。さすがに幸徳が遙かに年下の北(幸徳は明治四年、北は十六年生まれ)からの影響を受けて事件になったとは考えにくいが、北自身が自分の著作について大逆事件と関連づけて回想しているのは興味ぶかい。つまり、北自身からみても『国体論及び純正社会主義』には反天皇制的と誤解されかねない部分があったことを証言していると言ってよい。
北は処女作発表後に大陸へと渡り、中国革命を支援するなど独自の活動も行っている。その彼が、大正八年に書いたのが『日本改造法案大綱』であった。『改造法案』は青年将校達にとっていわばバイブルとも言うべき存在であり、決起によって目指すべき国家像の理想を理論的に支えたものでもあった。
実際に北は末松太平に向かって
「軍人が軍人勅諭を読み誤って、政治に没交渉だったのがかえってよかったのだ。おかげで腐敗した政治に染まらなかった。今の日本を救いうるものは、まだ腐敗していないこの軍人だけです。しかも若いあなた方です」
とハッパをかけている 。こうした北の発言が今まで肩身狭く暮らしていた青年将校らの革新への情熱に油を注いだことは言うまでもない。何せ、邪魔者扱いされていたのがいきなり「救世主」とよばれたのだ。言われた末松は北の言葉によってクラーク博士の「ボーイズ・ビー・アンビシャス」に匹敵する感銘を受けた、と記している 。
特に、事件の首謀者である磯部浅一は北と『改造法案』に対して心酔と言ってよい程傾倒しており、獄中で記した手記で『改造法案』を神聖視している。
日本改造方(マ)案(マ)大綱は絶対の真理だ 一点一角(ママ)の毀却を許さぬ、
今回死した同志中でも 改造方案に対する理解の不徹底なものが多かった 又残つている多数同志も 殆どすべてがアヤフヤであり、天狗である、だから余は 革命日本の為めに同志は方案の真理を唱へることに終始せなければならぬと云ふことを云ひ残しておくのだ、方案は我が革党のコーランだ 剣だけあつてコーランのないマホメットはあなどるべしだ。同志諸君 コーランを忘却して何とする 方案は大体いゝが字句がわるいと云ふことなかれ、民主主義と云ふは然らずと遁辞を設くるなかれ、
堂々と方案の一字一句を主張せよ、一点一角の譲歩もするな、而して 特に日本が明治以後近代的民主国なることを主張して 一切の敵類を滅亡せよ
ここまで来ると、もはや「原理主義」とでも言うべきであろう。磯部はコーランという言葉を使っているが、確かに彼の『法案』への傾倒具合は宗教と言っていい。もちろん、すべての決起将校がここまで北の思想を絶対視しているわけではなく、安藤のように秩父宮に影響を受け、現実社会への疑問から北の思想に触れた者もいる。
しかし、磯部は二・二六事件において決起の一番の首魁であり、その原動力とも言うべき存在であった。何となれば、彼一人でも事を起こそうと考えていたくらいである。
西田税はもともと軍人で、士官学校で言えば安藤の四期上、三十四期生である。同期には奇しくも安藤を革新に目覚めさせた秩父宮親王がいる。西田は大正十四年に広島の第五騎兵連隊に転任するが、この時病によって依願免官となっている。軍を退いた後は上京して大川周明の門下に入り、次いで北の門下となる。北から版権を譲り受け、『改造法案』を出版したのはこの西田であった。西田は軍人であった縁から、北より先に青年将校と革新運動に入り込み、北と軍を結び付ける役割も果たしていた。
二.「昭和維新運動」の展開
昭和初期に国家改造や革新を目指しての動きは総称して「昭和維新運動」と呼ばれる。この言葉は安藤の訓示にも使われているが、自分たちの動きを明治維新に続く「昭和維新」と位置づけていた。先に挙げた三月事件、十月事件、五・一五事件などもこの系譜にある。
これらの事件立て続けに起きた原因の一つに、処分の甘さがある。三月事件や十月事件では首謀者の橋本欣五郎大佐らはほとんど処分らしい処分を受けておらず、事件は当初明るみにすらならなかった。未遂に終わったとはいえ、この両事件は政権を転覆し、軍が国政の実権を握ろうとしたクーデターの陰謀である。それが、まともに処分すらされないとすれば、同様の目的を持った人間を増長させるのは目に見えている。
その後に起きた五・一五事件は未遂ではなく実際に時の首相が暗殺されてもいる。さすがに裁判にはなったが、死刑になった者は一人もいない。
「五・一五事件の判決では一人の死刑もなかったのである。〝よいことをすれば正しく遇せられる〟のだという考えが、いっそうつよく青年将校たちの行動への激化を誘っていった」
これは事件に連座した山口一太郎大尉の回想であるが、「正しいことをすれば正しく遇せられる」と事件参加者らに思わせ、決起を促してしまった責任は軍をはじめとする当局者にもあるといえる。
ところで、三月事件・十月事件と五・一五事件には大きな違いがある。前二つの事件が「桜会」と呼ばれる集まりを中心とし、参謀本部にいる幕僚の佐官クラスがその主要メンバーだったのに対し、五・一五事件ではほとんどが尉官クラス、中には候補生も混じっていた。また、方法としても三月事件・十月事件が軍を動員した大規模なクーデターであるのに対し、五・一五事件は少数者によるテロ(暗殺)であった。いわば、前者が政権奪取を目的とした「クーデター」により近いものであり、後者の方が下からの変革を指向する「革命」により近いものであったと言える。左翼のそれと違うのは、いわゆる革命とは王家の顛覆と殺戮が伴ったのに対し、「昭和維新」は逆に天皇を純粋な(彼等の考える)存在にしようした点にあると言えよう。
「皇室を頂点とする支配者階級が国民を虐げる」と考えるのではなく、「本来日本国民は陛下の赤子として皆平等の筈だが、側近の妨害によって陛下の恩徳が行き渡っていない」と捉えるのが「昭和維新」の考え方であったと言えよう。
なお、十月事件とそれ以降の動きの違いについては当事者達も認めている。
青年将校という言葉は一般的、概括的で、つかみどころのない言葉である。漠然とした盛り上がりの気勢の中で、革新的熱気を帯びてきたのが『十月事件』当時の青年将校の動きであった。ところが『十月事件』をさかいにして、、事件に対する批判と反省とが、青年将校運動に大きな変化を与えた。われわれはもっと深く日本の国体について掘り下げねばならぬ――、という声であった。歩三の菅波三郎中尉、安藤輝三中尉(陸士三十八期)、歩一の香田清貞中尉、栗原安秀少尉(陸士四十一期)、陸士予科区隊長の村中孝次中尉、戸山学校から私――。などで交わされていたが、事件直後にはまだ具体的にどうしようという方針は凝固していなかった。いいかえると『十月事件』、私らにとって思想的分水嶺であった。
『十月事件』に対する軍当局の処置には、割り切れない多くの疑問があった。橋本中佐以下十数名は数か所に軟禁はしたものの、料亭で毎日酒とご馳走ぜめの上、馴染の芸者まではべらせたということは、まるで、はれものにさわるやり方であった。しかも二週間で軟禁は解かれている。たとえそれが事前にあばかれたとはいえ、天下を動乱に陥れようとした未遂事件である。当局のこれに対する処断がこんなに簡単にすまされようとは、思いもよらぬことであった。その上、面子保持のためか記事差し止めの強硬手段で国民をつんぼ桟敷に押し込めたり、都合の悪いことは握りつぶしたり、軍当局の姑息は手段に対して、心あるものは眉をひそめたのである
十月事件の失敗は青年将校らに思想的な研究の必要を考えさせ、合わせて軍当局の事なかれ主義を露呈させた。軍が体面を守るために行った隠蔽工作は逆に若い士官らに上層部への反感と軽蔑をもたらし、決起へと促す要素の一つにもなったのである。もしこの時、軍当局が毅然たる態度で陰謀に参画した将校を罰していれば、あるいは後の惨劇をいくらかでも防ぐことができたのかもしれない。
三.皇道派と統制派
大蔵の回想にある「青年将校」という言葉は、「皇道派」と言い換えることもできる。皇道派とこれと対立する統制派という言葉は二・二六事件を語る際に必ずと言って良いほど聞かされる言葉である。ごく簡単に言えば、皇道派は隊付きの尉官クラスの将校で、直接行動によって国家を改造しようとするもの、統制派は合法的な手段によって目的を達成しようとする中央(陸軍省、参謀本部)の中堅幕僚という区別が出来る。
前者は五・一五事件や二・二六事件を起こす者達で、彼等に同情を寄せ、また彼等から信頼されている荒木貞夫大将、真崎甚三郎大将なども皇道派に入れることができる。一方の統制派の中心人物は陸軍省軍務局長の永田鉄山少将、武藤章大佐、片倉衷少佐らがこれに当たる。後に首相となる東條英機も統制派として区分されている。
しかし、何も当時の陸軍がこの二つの派閥に泰然と区別されたいた訳ではない。どっちつかずの者が当然多くいたし、どちらとも繋がりのある者もいた。こうした派閥を軽視してはいけないが、あまりそれに捕らわれすぎ、常に「誰々は何派」と考えすぎてはかえって理解しにくくなる恐れもある。
結局のところ、この皇道派と統制派の対立も二・二六事件が起きる背景にあった派閥間の対立であったといえよう。
四.「皇道派」の隆盛と衰退
さて、五・一五事件の後に安藤らの動きはどうなったかと言うと、ますます活発の度を加えていった。彼等の理解者であり、また頭領とも頼む昭和六年に荒木貞夫は犬養内閣で陸相となり、翌七年には参謀次長には同じく皇道派の真崎甚三郎を据えた。当時参謀本部のトップは閑院宮載仁殿下であってほとんど実務にはタッチしないことから、実質的には参謀次長が統帥部のトップとなる。荒木は、自分とその同志で「陸軍三長官」の二つのイスを占めたのである。しかも、教育総監の武藤信義大将は荒木や真崎の先輩としてここまで目をかけてきた、いわば「庇護者」とも言える人物であった。
人事面でもその影響は色濃く出た。昭和六年の人事異動で憲兵司令官に秦慎次中将、翌七年の人事で陸軍次官には柳川平助中を持ってきたりして脇を固めた。両者とももちろん荒木・真崎系統の人物である。憲兵司令官は「軍警察」であるから、内部ににらみをを聞かせる事が出来るし、次官の柳川はもちろん荒木の腹心的役割を果たす。この荒木―真崎がそろって省部(陸軍省と参謀本部)のトップに座った時期、皇道派はその全盛期を迎えたと言っていいだろう。当然ながら彼らを慕う青年将校らにとっても悪いはずはない。
しかし、荒木・真崎の時代は間もなく終わりを告げた。昭和八年六月に真崎は大将に昇進したのだが、荒木・真崎らがあまりに自分たちの都合のよい人事を行うため、閑院宮参謀総長の不興を買い、参謀次長を辞めざるを得なくなった(後任は植田謙吉)。また昭和九年の年明け、荒木は肺炎を患って陸相を辞任した。荒木の推薦で後任には教育総監の林銑十郎大将が入り、教育総監には真崎甚三郎が復帰した。形の上では荒木自身が退いても真崎を残すことで影響力を保持出来たようにも見えるし、林はかつて武藤信義によって辞めさせられようとした際、真崎の嘆願によって首の皮一枚繋がったという経緯がある。当然、真崎やその上にいる荒木に逆うものとは思われなかった。これが間違いだった。
意外にも林は陸軍省軍務局長に統制派の雄、永田鉄山少将を持ってきた。朝日新聞記者で陸軍の内情に詳しい高宮太平によれば、
「真崎などは頭ごなしに林をやっつける。古い恩義があるから黙っていても、林の気持ちは徐々に真崎から離れていった」
つまり、自分たちの傀儡、安全パイと見込んで連れてきた林を、あまりにも粗雑に扱う真崎に対する反発心が湧いてきたということである。しかも、林は士官学校の年次では真崎より先輩である。いくら恩義があるとはいえ、いつまでも後輩に気を遣わねばならないのに嫌気がさしても不思議ではない。
やがて両者の亀裂は深くなり、昭和九年八月の人事異動で林は皇道派の排除を始める。陸軍次官の柳川と憲兵司令官の秦はそれぞれ第一・第二師団長として中央から追い出され、まず皇道派の勢いを失墜させた。
これは林一人の知恵ではなく、林と陸士同期の渡辺錠太郎大将(軍事参議官)、及び永田、植田の助けによったものだった 。
特に軍務局長というのは軍制を担う陸軍省でも特に中心となる部局であることから、永田鉄山は林の懐刀となって働いた。彼は青年将校らが政治活動に身を入れるのを掣肘し、政府と折衝することで国防力の充実を実現しようとしていた 。
軍務局長としての永田は非常に優秀で、部下からは「合理適正居士」との渾名を奉られていた 。陸軍大学時代は試験前に他の生徒が必死に勉強しているのを尻目に、悠々と関係のない勉強をしている、という逸話を持つ秀才である。高宮記者などは「林軍政は永田軍政である」 という程で、いかに永田の存在が際立ったものだったかがよくわかる。
しかし、自分たちと対立する人物が優秀であればあるほど、青年将校らにとって恐るべき的として認識されることになってゆく。
四.士官学校事件
昭和九年の十月二十八日、西田税の家には大勢の軍人が集まって話をしていた。その中には安藤、大蔵、士官学校三十六期の野中四郎大尉の三人もいた。この時の様子を大蔵の回想によってみると、
野中と安藤と私の三人で話し込んでいるとき、西田と新顔の士官候補生の対話が私の耳に飛び込んできた。
「西田さんはこの堂々たる邸宅を構えて、豪奢な生活をしているようですが、その費用はどこからでていますか」
私は生意気な候補生だと思った。だが同時に気概のありそうな奴だとも思って、好奇心をもって眺めた。
「あの士官候補生は何者だ?」
私は、安藤に聞いた。
私もさっききいたばかりですが、佐藤という候補生だそうです。武藤の話によると青島戦争のときの有名な軍神、佐藤連隊長のわすれがたみだそうです」
「なるほどそうか・・・・・・」
私は、彼の生意気な態度にむしろ好感が持てた。佐藤の直情径行なぶつかり方に、西田は少々もてあましぎみであった
この時安藤が大蔵に紹介した人物こそ、「スパイ」として青年将校達の仲間に入ってきた佐藤候補生であった。
そしてここに、辻政信という軍人が登場する。辻は明治三十五年石川県生まれで、実家は貧しい炭焼き農家であった。しかし人一倍の刻苦勉励で陸軍幼年学校、士官学校を主席で卒業、陸大でも三位という抜群の成績を残した。士官学校は三十六期なので、安藤の二期上になる。
辻は特異な人格の持ち主で、逸話の多い人物だった。潔癖な性格で女遊びを非常に嫌い、夜営の際に先輩が酒気を帯びて帰ると兵士が寒さに震えているのに何事かと食ってかかったり、行軍の際は普通の将校が軽い荷物を背負うのに、背嚢にわざわざ煉瓦を入れて兵士と同じ苦労をしたこともある 。同僚や上官であっても言いたいことがあれば遠慮せず物を言い、一方で部下の兵士には優しかった。行軍中に落伍しそうな兵がいるとその銃を担いでやったり、背嚢の中にアメやキャラメルを入れ、居りに触れて分けたりしていた。こんな辻であるから、彼の部下達からは絶大な人気があった 。
が、一方で視野がせまく独断専行の気味があり、策略を巡らして自己保身に勤めたり、誇大宣伝を行う重大な欠点があった。後に起こるノモンハン事件では主戦派として大きな損害を招き、しかも前線のある連隊長がビールを飲んでいると報告(実際は水だった)し、その連隊長を首にしてしまっている 。さらに大東亜戦争のフィリピン戦では投降兵を殺害するするように進言したり、実際にフィリピンの最高裁判長を処刑するなどの暴挙も行っている 。
辻は陸士同期の塚本誠憲兵大尉に対し、「極秘だが」と前置きして佐藤を使った青年将校の動向調査の協力を依頼している。
「俺が週番指令をしていると、よく生徒が訪ねて来るが、その中には五・一五事件に参加した士官候補生と同じような考えを持っているものがいる。俺はそのつど説教しているが、先日、佐藤という候補生から、『生徒の中には、村中大尉や磯部主計中尉のところへ、休みの日に出入りしている者がおります。私もこれに誘われていますが、どうしたものでしょうか』と、相談を持ち込まれた。俺は、生徒に、『人のあやまちを見てほっておくのは、正しい友情ではない。もし友達がどろ沼にはまったなら、自分もいっしょにとびこんで助けねばならん。岸から手を差し伸べただけでは助けられない』と言っているのだが、佐藤候補生に、『お前もそのつもりで、お前を誘っている候補生といっしょに行動し、その状況を俺に報告しろ。俺が指導するから』といっておいた。
その後、佐藤の報告によると、村中、磯部らは、北、西田らとつながりがあり、歩三、歩一、その他の急進将校の間には、何か計画があるように思われるのだが、確たる証拠がない。確証をつかんで、断固処分しなければ、この種の風潮は根絶できない(後略)」
その「確たる証拠」をつかむために、佐藤候補生は安藤らのいる場に顔を出したのだった。そしてついに十一月二十日に村中孝次、磯部浅一は憲兵隊に検挙され、軍法会議にかけられた。「自分たちの理想実現のために不穏な行動を取ろうとした」ということだが結局証拠は見つからず、証拠不十分で停職処分となった。磯部らを告発したのは先に述べた辻と塚本、そして参謀本部の片倉衷少佐らだが、事件を研究した高橋正衛氏は磯部らは全くの潔白で、辻らの策謀によって罠にはめられたものであると断言している 。
村中や磯部は当然これに反発し、辻や塚本の行動、三月事件、十月事件の真相などを書いた『粛軍に関する意見書』と呼ばれる文書を作成し、辻、塚本を誣告罪で訴える挙に出た。が、軍は彼等のこうした動きをいやがり、磯部・村中を今度は免官にしてしまうのである。三月事件も十月事件も軍の恥部として公表されてはいなかったので、彼等を追放することで隠蔽しようと企んだのは明かである。しかし、磯部と村中はいわば冤罪によって追放されたも同然であるから、軍への恨みは当然残る。磯部、村中は二・二六事件の首謀者であるが、この時の恨みが決起の理由に全く無かったとは言えないだろう。結局、二人は民間人として事件に参加することになる。
五.真崎甚三郎の更迭
こうして徐々に皇道派の勢力は削がれ、青年将校らは追い詰められていった。そしてさらに、陸軍三長官の中で唯一残っていた真崎甚三郎も、昭和十年八月の定期人事異動によってその座を追われる。皇道派にとっては荒木が居なくなってのち、頼むは真崎一人となっていた。その真崎までも、ついに現役から退かされるのである。
この人事は難航し、相当な騒ぎになった。陸軍の人事は大臣の所管事項であり、その気になれば林陸相一人で行うことになんの問題もなかった。しかし、慣例的に三長官の人事は陸相、参謀総長、教育総監の三者が協議して行われることになっている。林は真崎に対し、
「君が総監の職を退くことを納得してくれれば、他の八月異動は全部君の思う通りにやる」
と説得にかかったが、真崎はこれを拒絶した 。結局三長官会議でも意見の相違は変わらず、陸相と参謀総長の二人で真崎の更迭と林の同期・渡辺錠太郎大将の教育総監就任が決定された。
これで終わればよかったのだが、真崎や荒木はまだ巻き返しを狙っていた。七月十八日の軍事参議官会議において、真崎と荒木は林に対して反撃を開始した。
会議には真崎、荒木の他に林陸相と新総監の渡辺、それから阿部信行、菱刈隆、松井岩根の川島義之各大将と永田軍務局長が参加した。ここで真崎が三月事件当時(軍務課長時代)永田が書いたクーデター計画書を持ち出して本人に間違いないかを確認し、
「これほど歴然たる証拠がある。三月事件は闇から闇へ葬られているが、かような大それた計画を軍事課長みずからが執筆起案しながら、時の当局者はこれを不問に付している。軍紀の頽廃これよりはなはだしいものがあろうか。その者を事もあろうに陸軍軍政の中枢部たる軍務局の席につかせているとは何事であるか」
と言い放った 。真崎は、永田が過去に書いたクーデター計画書を証拠にし、その永田を軍務局長として採用した林の非を鳴らしているのである。
しかし、荒木・真崎の切り札は渡辺の機転によって無と化した。渡辺は荒木に質問してこのクーデター計画書を機密公文書と見なしている、との言質をとった後、すかさずその弱点をついた。
「宜しい。一歩を譲って機密公文書と認めよう。それならばお尋ねするが、軍の機密文書を一参議官が持っていられるのはどういう次第であるか。機密書類の保持は極めて大切なことである。これが一部でも外部に洩れたとすれば、軍機漏洩になる。真崎参議官はそうして持参せられたか、御返答によっては所要の手続きをとらねばならぬ」
これには真崎も参った。公文書だと言わせたのは逃げ場を塞ぐための渡辺の策だったのである。
「その書類は軍事課長室の機密文書を収蔵している金庫の中にあったものである。不穏なる文書なるが故に、陸軍大臣たる自分の許に届けられ、当時参謀次長たる真崎参議官に回付したもので、機密漏洩などもっての外の事だ」
荒木は弁明するが、渡辺はさらに畳みかける」
「書類が真崎次長の許に回付された経路はそれで判ったが、その書類が教育総監が所持せねばならぬ書類であるか、さらに教育総監をやめて参議官となった真崎大将が所持せねばならぬ書類かどうか、憶測をたくましうすれば、永田を陥れんがためにひそかに所持していたとも解せられぬことはない。この点について弁明があれば承ろう」
これで、勝負は決した。両者とも言葉も無い。阿部信行がこの件を打ちきりを提案し、荒木と真崎は助かると同時に切り札を失う形となった。
六.相沢事件――決起への一里塚
かくして真崎甚三郎は教育総監を更迭され、軍上層部に於ける皇道派の勢力は大打撃を受けた。林に真崎の更迭をアドバイスし、軍事参議官会議で真崎と荒木をやり込めたのは渡辺錠太郎なのだが、皇道派青年将校らはこれを軍務局長永田の仕業とみていた。昭和十年五月に林陸相は永田を伴って朝鮮、満州の視察に赴くのだが、これが真崎を更迭する打ち合わせのためのものである、との噂が流れたのである 。
面白いのは、皇道派の勢力が押さえつけられ始めた際に人事権を握る林陸相ではなく、青年将校らは軍務局長の永田をその黒幕として憎悪するようになったことである。普通なら林に対しても批判の矢を向けそうな気がするが、これまでもこれからもそうはならなかった。彼らにとって、林など永田のロボットとしか思われていなかったようだ。実際に林に面会して軍の統制について問答した大蔵栄一の林評がそれを物語っている。
「私は大臣との問答の一部始終を話して、陸軍大臣林銑十郎大将は風采に似合わぬ凡庸の最たる者である、と結論づけた」
風采に似合わぬ、とは見事なカイゼル髭を生やしている林が、見た目だけは立派な将軍に見えるということを指している。事実、軍事参議官会議でも林は自分の弁護を自分ですることができず、渡辺の機知によって窮地を救われている。この後林は首相にもなるが、悪評のみを残して辞職した。大蔵には「小心」とか「哀れ」とか言われる 林は人物としてはあまり優れていたとは言えないが、皮肉なことにその御蔭で青年将校らに狙われることはなかった。しかしその分、永田の方に火の粉が飛んでくることになってしまう。
昭和十年七月十九日、陸軍省の永田のもとに一人の軍人が訪れた。彼は相沢三郎中佐といい、皇道派青年将校の一人であった。彼等の仲間としては珍しく、佐官である。
相沢が訪ねた際に丁度永田は外出しており、帰ったら連絡してくれるように頼んで一端九段偕行社へと引き返した。そして午後三時過ぎに永田帰省の連絡をもらい、早速陸軍省へと赴いて会談におよんだ。相沢の要件は、永田への辞職勧告である。
相沢が後に裁判で証言したところによれば、この時永田に対して青年将校の国家革新運動を永田が邪魔することを責め、教育総監の更迭などは軍を財閥や政党の私兵化して天皇の統帥大権を干犯するものであるから、責任をとって辞職せよ、というものだったという 。
が、永田がそんな話を了解するはずはなく、会談後には
「どうも話がへたな上にズーズー弁なので、要点がはっきりしなかった。しかし、諄々と説いたら納得して帰ったよ」
と知人に語った 。この会談については、実際には永田の一人舞台で終わったのだろう、と関係者は見ている。相沢を知っている人は彼は無口で口べたであり、陸軍切っての秀才と言われた永田との会談は恐らく両者噛み合わなかっただろう、と観察している 。確かに、永田の話からも両者の話が噛み合っていたとは思えない。そして恐らく、永田が「納得して帰った」と言うのは勘違いで、相沢の方も「話しても無駄だ」と吹っ切れたのを見誤ったのだと思う。
その後、相沢中佐は八月の定期異動で台湾歩兵第一連隊附きを命ぜられた。台湾に行ってしまえば、何かあっても直ぐには動けない。恐らく、相沢中佐の決意はここで決まったのだろう。相沢は八月十一日の深夜、西田税の家で大蔵栄一とこんな話をしている。
「ときに大蔵さん、いま日本で一番悪い奴だれですか」
「永田鉄山ですよ」
私は即座に答えた。
「やっぱりそうでしょうなァ」
相沢は、かすかにうなずいた
(中略)
かれこれ十分ぐらい雑談を交わして、私は再び腰を上げた。
「なるべく早く内地に帰るようにして下さい」
相沢中佐は玄関まで私を送ってきた。
「あなたのうちに、深ゴムの靴が一足あずけてありましたね。あしたの朝早く奥さん
に持ってきて頂くよう、頼んで下さい」
「そんな靴があったのですか」
私は知らなかった。たぶん去年の春、中耳炎を患ったころのことであろうと思った。
「奥さんが知っています」
「承知しました」
とうなずいて下を見ると、新しい茶色の編み上げの靴が一足そろえてあった。
「いい靴があるじゃありませんか」
「いや、あの深ゴムの方が足にピッタリ合って、しまりがいいんですよ」
といいながら相沢中佐は、銃剣術の直突の姿勢をとった
「わかりました。お休みなさい」
私は、相沢中佐と別れて玄関を出た 。
永田鉄山、という名はこの時点で彼等にとって「一番悪い奴」までになっていた。「やっぱり」という相沢の返答も、これが彼等の間で共通の認識となっていたことを示している。そして何より、相沢の仕草が永田を殺害の決意をはっきりと物語っている。ゴム靴の方が、すべりにくく確実にしとめられるということである。
その翌日、相沢は転任の挨拶のために陸軍省整備局長の山岡重厚を訪ねた。山岡は、士官学校時代の相沢の教官だったのである。ここで相沢は給仕に永田がいるかどうか確認し、「転任の挨拶をする」と言って局長室へ向かった。あとは、惨劇である。
局長室へ入ると正面には衝立があり、その奥の事務机に永田はこちら(相沢の方向)を向いて座っていた。永田と体面しているのは憲兵隊長新見英夫大佐と兵務課長山田長三郎大佐である。相沢は衝立の影で抜刀し、両大佐の後ろを回って永田に斬りかかった。永田はとっさの事にイスから立ち上がって逃げようとしたが、相沢は右肩から袈裟懸けに切り下ろした。これは深手にはならず、永田は隣室に逃げようとドアノブを握った。相沢は今度は刀身の中程を左手で握り、銃剣術の要領で一気に突き刺した。刃は永田の背を突き通し、ドアまで達していた。相沢は刀を引き抜き、永田が倒れると留めの一刀を加えた 。
こうして「日本で一番悪い奴」と皇道派青年将校に罵られ、しかし将来の陸軍を担う逸材とまで言われた永田鉄山は、白昼堂々と訪れた一中佐の手により、陸軍省の一室で凄惨な死を遂げた。
七.「直接行動」へ高まる鼓動
相沢中佐による永田の暗殺は、他の同志達を直接行動へと激しく駆り立てた。西田より相沢が何かヤルかも知れない、と聞かされていた磯部は急ぎ自動車をとばし、陸軍省へとやってきた。事件発生後の陸軍省はすでに大騒ぎである。
「往来の軍人が悉くあわてゝゐる どれもこれも平素の威張り散らす風、気、が今はどこへやら行つてしまつている 余はつく〱と歎感した これが名にしおふ日本の陸軍省か これが皇軍の中央部将校連か、今直ちに省内に二、三人の同志将校が突入したら陸軍省は完全に占領出来るがなあ、俺が一人で侵入しても相当のドロボウは出来るなあ、なさけない軍中央部だ、幕僚の先は見えた、軍閥の終えんだ、今にして上下維新されずんば国家の前路如何せんと云ふ普通の感慨を起こすと共に、ヨヲッシ俺が軍閥をたほしてやる 既成軍部は軍閥だ 俺がたほしてやると云ふ決意に燃えた」
磯部の感慨は、そのまま「中央幕僚」への侮蔑と決起への自信に繋がった。相沢がまさかそこまで考えていたということはないだろうが、永田鉄山を斬殺したことにより、はしなくも緊急事態に対する幕僚達のオロオロした態度が露わになってしまったのである。これで、自分たちがことを起こしても大したことができんだろう、と磯部は感じた。実際、この様子を目撃した磯部は大蔵に会った際、
「私はたった今この目で見てきたんです。陸軍省の中はごったがえしています。だらしないったら、いえたもんじゃありませんよ。これから同志四、五人で斬り込めば、陸軍省は簡単に占領出来ますよ、行こうじゃありませんか」
と持ちかけている。さすがに大蔵はそんなとっさの思いつきには乗らなかったが 、磯部が自信を深めた様子はよくわかる。ここから、事態は一気に急転する。
十二月になると、再び陸軍の定期人事異動が行われる。この時、安藤らが所属する第一師団の師団長である柳川平助が、台湾軍司令官として転出することが決定された。このニュースをいち早くつかんだ東京日日新聞陸軍省担当記者の石橋恒喜は、かねてからの知り合いで、皇道派青年将校の良き理解者でもあった山口一太郎大尉をその官舎に訪ねた。
「山口大尉よ!師団長は台湾へ動くぞ」
私がこう切り出すと、彼はさっと顔色を変えた。
「えっ、本当か?それはえらいことになった。柳川閣下がおられたので若い諸君も自重していてくれたが、閣下が出ていかれたのではどうなることか、わしにはもう彼らを押さえる力はない」
山口は暗然たる面持ちで、しばらく天井をみつめていた
柳川は、荒木が陸相の時に陸軍次官を務めていた人物である。荒木が病気で辞任し、真崎が更迭されてからは皇道派の庇護者としては最も重要な人物と言えた。その柳川が、いよいよ中央から転任させられる。第一師団は安藤を始めとして皇道派青年将校を多く抱えており、山口大尉はその理解者、また重し役となっていたのが柳川平助だと述べている。
そしてもう一つ、青年将校の決起を促進する出来事があった。相沢三郎中佐の裁判である。二・二六事件を研究した高橋正衛氏は、相沢裁判について次のように記している。
「永田という人物と、軍務局長という職柄とを一挙に斬った相沢は、永田派、幕僚からは狂人扱いにされ、青年将校からは偉大な先覚者、志士として尊敬された。軍内二派の相対立するこのような見解は、そのまま相沢の軍法会議に持ち込まれた。
青年将校派は法廷闘争を試み、この裁判を維新運動の橋頭堡にしようとし、幕僚派は、青年将校運動を断固として圧殺しようと決意した。そして相沢公判の一つの山場である、真崎が証人として出廷した昭和十一年二月二十五日の翌日二・二六事件は勃発したのである」
皇道派にとっても統制派(幕僚)にとっても、この公判は自分たちの目的を貫徹するための絶好の機会ととらえられた、ということである。皇道派にとっては公判で軍の腐敗や相沢中佐が斬殺に到った理由を公にすることで統制派の追い落としを狙えるし、統制派にとってはこの相沢の一挙を青年将校と関連づけてその運動を牽制することができる。それゆえ、相沢の一挙をどう見るかは高橋氏言うように、真っ二つに分かれた。永田の部下の軍務局だった武藤章は相沢の行動を
「一部野心家たちの指導に基づくデマ放送を盲進して」
と見ており 、相沢が間違った一方的な情報を信じた結果としている。一方で相沢の同志達の間では「相沢につづけ」の声が高まり、相沢中佐についての思い出や感想文を一冊の本にまとめ、西田に送って有効に使ってくれと依頼している 。「有効に」とは配布して相沢の素顔を人々に理解してもらって裁判を有利に進めるとか、販売して裁判のために使うと言ったところだろう。
相沢を裁く第一師団軍法会議は、昭和十一年一月二十八日青山にある第一師団司令部構内で開かれた。相沢の特別弁護人はやはり皇道派の一人である満井佐吉中佐、弁護人は貴族院議員の鵜沢聡明博士が選ばれた。裁判の詳細は省くが、武藤章に言わせれば
「永田少将殺害の相沢公判は、所謂公判戦術を弄して軍法会議の神聖を冒して上官を誹謗し、軍の秘密書類の提出を要求する等、全く言語道断の様相を呈した」
一方で磯部などはこの裁判を相沢側に圧倒的遊離なものと見ていた。
「相澤中佐の公判は劈頭より大波乱を起こした 予審のズサンなる取調べに対して弁護側が俄然鋭い攻撃をはじめたからだ 公判に対する世間の評は 将に中佐に九割の勝利を示している 全国民の声援も甚だしく高まりつゝある」
有利、と言っても無罪になるとかそんな話ではない。何せ、真っ昼間に堂々と上官を斬り殺したのであるから、その点をどうこうできる訳がない。磯部の言う「中佐に九割の勝利」とは、相沢が永田鉄山を殺害した理由が永田側の策謀や皇道派への弾圧にあることを十分に証明できた、ということであろう。
そして磯部は「国民の九割の声援」と述べているように、世間の支持は自分たちの方にあると見た。
「余は去年来の決心をいよ々強固にした それで他の同志がたとい蹶起せずとも 余は田中部隊を以て河野、山本と共に蹶起する決心で着々準備をした」
河野とは所沢飛行学校の河野寿大尉、山本は磯部と同じく民間人の山本又のことである。磯部の決心はついに固まり、とうとう二月二十六日へ向かって走り出した。
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