区切の日、立ち上がる日、歩き出す日

今日は実家で「百箇日法要」があった、「卒哭忌」とも呼ばれ、遺族が泣き悲しむ事を卒業する、区切りの日でもある。
仏壇の前で両親と阿弥陀様に「これから前向いて人生を楽しむ」と誓いを立てて、穏やかに終わった。

ふとした時に訪れる寂しさは小さくなれど消える事はない、でもそれは「今までの繋がりを選び、より深める」や「新たなステキな出会いに巡り合う」に心の舵をとる激励にもなる、寂しさは負の感情だけではなく、受け止めた僕の燃料にもなる。

僅かな時間のゆとりができたので、今日は「出会い」に行く!物だろうが人だろうが懐かしいのか新しいのかは構わない。

「欲しけりゃ自ら動く」当たり前だけどおざなりにしがち、頭に入れると端に追いやってしまいがち、だから身体にあじあわせてくる。

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