鳴りやまぬ心
ウェイトレスのきれいなお姉さんの一人が、実はわたしと同い年らしいと知って驚いたのは、ここで働き始めて2ヶ月近く経った頃だった。
美琴というどこかクラッシックな響きのある名前を持つ彼女は、名は体を表すという言葉とはかけ離れた、と言ったら失礼だけれど、何というか賑やかな外見をしていた。
今日もいつものようにカンカンカンと気怠くサンダルの踵をタイルの床に響かせながら、特に用があるわけでもなく、わたしのいる厨房にやって来る。
その時のわたしは、ちょうど喫茶店で出すタマゴサンドにはさむ具を作っているところだった。卵を固めに茹でて殻をむき、卵切り器を使って均等にスライスする。後はさらに細かく包丁で粗みじん切りして、大きめのボウルに入れて特製ドレッシングと混ぜ合わせる。
「ね、あんた化粧とか全然しないの?」
灰色に近い青いシャドーを施した目で、わたしの顔を横から覗きこむようにして、美琴さんは囁くような声で聞いてくる。ここで話しかけて来る時の彼女は、異様なほどに体を密着させて来る。無遠慮な視線で、わたしの顔を切りつけるようにして眺めまわす。わたしは目を合わせられない。はっきり言って逃げ出したい。でも避けられない。くっと体を固くして去って行ってくれるのを待つしかなかった。
「しないこともないですけど、なんかめんどくさくて」
「ふーん、そうなんだ」
どうでもいいような返事が返ってくる。今日の美琴さんはなんだか面白くなさそうな顔をしている。どこか投げやりな調子だ。こういう時は刺激しないに限る。できるだけ言葉少なに接するに限る。
「なんかさ、あんた眉毛ボサボサじゃん。ね、ちょっと前髪上げてみて」
今日の美琴さんはなかなか手強い。こちらが傷つくようなことを平気で言って来る。わたしは泣きそうになるのをなんとか隠して、嫌です、とできるだけ素っ気なく返す。
「いいじゃん。どうなってるか見たいの」
美琴さんの右手が素早い動きで、わたしの厚めに下ろした前髪に伸びてくる。
「やめて下さい」
わたしは驚いて突差にその手をよけようとして、少しバランスを崩す。
「ふーん、やめて下さいだって。ほんとかわいいよね。やめてくださーい」
美琴さんは大袈裟にわたしの口真似をして、ばかみたいに大きな声で笑う。
はっきり言って、すごく不快だ。
美琴さんはひととおり笑い終えると、今度は急に黙り込む。一体どうしたと言うのだろう。なんとなくいつもと様子が違う。
「店長にさ、あんたのことが好きなのかって聞いてみたのよ。そしたらさ、なんて言ったと思う。わかる?だってさ。よかったね、両思いで」
美琴さんはなにげない調子で、驚くようなことを無感情に言うと、わざとらしくサンダルの踵をいつにも増して大きく鳴らすと、すたすたと去って行った。
わたしは不意を突かれて、いきなり厨房に一人取り残されてしまった。
急激に心拍数が上がって息苦しくなる。なんだか腹立たしいのか気恥ずかしいのかよくわからない複雑な感情に陥った。
思いがけず発された両思いという言葉に一瞬ぽかんとなる。
両思いってどういう意味だっけ。わたしの知ってる意味とひょっとして違うのか。堂々巡りした挙句、そんなことまで思った。
そんなわけはなく、きっとからかわれたのだろうと結論を出した。
それよりも何よりもそもそもわたしって店長のこと好きだったのか。
ばかばかしい気持ちが徐々に込み上げて来た。ただ反応を楽しんでいるだけなんだろうと、ややもすると本気にしてしまう自分に無理矢理そう言い聞かせた。
実際、わたしと店長は厨房で一緒になることはあっても、会話らしい会話はほとんどしたことがなかった。わたしの教育係は主に彼の兄でもある主任の仕事だった。主任にはよく叱られていて、叱られ慣れして行くうちに、ちょこちょこ本音を言えるようになっていた。打っても響かない鐘のようだと言われ続けたわたしでも、主任とはいつのまにか押し問答めいたものまでできるようになっていた。それがいいことなのかどうかはわからなかったけれど。
でも、店長とは平行線のままだった。沈黙には沈黙を。無表情には無表情を。そんな感じだ。その頃のわたしは、相手の発している雰囲気に影響されやすかった。
「ほんともうやめて欲しいよ」
わたしは一人になった厨房で誰に言うでもなく小さくそうつぶやくと、くちゃくちゃといつもより力強くボウルの中のタマゴを混ぜ始めた。
そうは言っても心は正直だ。先程の美琴さんの言葉が気になって仕方なかった。
心の中では何かがずっと鳴り響いていた。