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守らなくてはならないちいさなものを、解像度を上げていくつも見えるようにすることが、わたしたちに必要な誇り|柳川藩主立花邸 御花

福岡・柳川視察|柳川藩主立花邸 御花
2021年9月23日

縁あって地域の文化をリサーチする仕事をはじめた。各所に赴いては、その土地に受け継がれてきた文化やこれからの時代においてよりよい形で大切に残していきたい文化に触れ、学んでいく。

多くの地に足を運ぶことでみえてくるものがあるだろう。多くの文学や映画や芸術に触れることで、学んできたことがあるように。相対化することは選択肢を増やす。まずは見ることから。

やがて見てきたもの同士が繋がったり、ある土地の事例がべつの土地の事例に活きてくる。関係性をつむいでいくための、リサーチはプロセスとなる。プロセスにまだ見ぬ可能性が潜んでいる。

視察する先をいくつか今後紹介していこうと思う。情報を網羅するような紹介の仕方はせずに、こころに響いたわずかのことだけを書き留めていく。正式なレポートではないから主観的なことを。

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旧柳川藩の時代から領主として土地を治めてきた立花家。その末裔18代目立花千月香さんが今も同地に残り、江戸時代からの土地で明治期に建てられた別邸を宿として経営している。

血筋が残っているということ、同じ土地に根づいてその地を愛しながら、末裔の心が息づいているということは、ほかの地域にはほとんどない稀有なことだ。そしてかつては藩主の、伯爵家の所有だったものがひらかれて今、存在している。

もはやただの宿ではない。機能的価値を超えたものを、物理的に見える経済的価値を超えたものを、目に見えることのない時代を超えた大いなる背景を、そこにどれだけ見ることができるか。

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文化は文脈がつくっていく。芸術もまたそうであるように。

文脈を想像することができるのは、人間のこころが得たこれほどない豊かな能力だとおもう。わたしたちは歴史に思い馳せることができる。はてしなく流れる長い時のなかに一瞬、いまここに立っているわたしの存在を思うことができる。これから先、わたしの命が途絶えたあとにも、より多くの者たちがこの同じ風景を眺めるだろうことを思い描くことができる。

立花千月香さんは、「住んでいるひとが誇らしいまちでないと、観光に来てもおもしろくない」とおっしゃっていた。御花を守りつづける千月香さんは、まちの誇りを担おうとしているように思えた。そこに末裔の心が息づいているとおもった。高貴なこころだとみえた。

誇りという言葉はとても扱いのむずかしい言葉だが、文化が誇りをつくることは間違いない。つまりは、文脈を想像することが誇りをつくる。

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ひとりの人間がみずからの人生を誇りに思えるかどうかも、同じではないだろうか。どんなふうに生きてきたか、何を大事に守ってきたかが、そのひとの誇りを形づくっていく。

扱いのむずかしい言葉だと書いたのは、ときにその文脈の想像が偏るとあやうい方向へ向かうこともあるから。なぜなら歴史(History)は物語(Story)だから。

揺るがないものとして誇りをもつということは、信念としても行為としてもあやうい。それでいて誇りをもつことは、文化は、文脈を想像することはまぎれもなく大事だ。

日本の誇り、というと大きすぎる。日本の美しさ、という言葉が大きすぎるように。大きすぎるものは地に足がつかない。ナショナリズムと結びつかないバランス感が問われる。

だから、もっと細分化して個別化していくといい。柳川という誇り、御花という誇り、その庭の松濤園という誇り。それら一つひとつの固有名への文脈の想像が、実践的な誇りを生み出していく。

みえないものを見ようとする。ぼやけたものとしてではなく、確かなものとして。そのためには、なるだけちいさなものがいい。本当に大切な、守らなくてはならないちいさなものを、解像度を上げていくつも見えるようにすることが、わたしたちに必要な誇りだとおもう。




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