ルソー『エミール』解説(3)
はじめに
新刊『NHK100分de名著 苫野一徳特別授業 ルソー「社会契約論」』出版記念として、前回に引き続き、ルソー『エミール』の解説第3弾をお届けします。
苫野一徳オンラインゼミで、多くの哲学や教育学などの名著解説をしていますが、そこから抜粋したものです。
【第3編】
第3編は、12〜3歳から15歳までの教育についてです。
さまざまな欲望が次々に伸びていく時期。ただし、性的欲望はまだそれほどでもない時代。
ルソーは言います。
「自分のことは自分でできるばかりでなく、かれは自分に必要な力よりもっと多くの力をもつ。この時期はかれがそういう状態におかれる人生の唯一の時期だ。」
第2編で見たように、不幸の本質は「欲望と能力のギャップ」にあるとルソーは言います。
しかしこの時期、子どもたちは、自然に育ったならば、両者のバランスが最も取れた時代を過ごすとルソーは言うのです。
そんな子ども時代の教育は、どうあればよいのか。
ルソーの洞察がまたも光ります。
1.たくさんの知識ではなく、正確な知識を
まず、ルソーは言います。
「わたしの教育の精神は子どもにたくさんのことを教えることではなく、正確で明瞭な観念のほかにはなに一つかれの頭脳にはいりこませないことにある、ということをいつも忘れないでいただきたい。たとえかれがなに一つ知らなくても、わたしはかまわない。ただかれがまちがったことを覚えるようなことさえしなければそれでいい。」
この時期に、たくさんの知識を詰め込もうとしてはならないとルソーは言うのです。
知識を集めてばかりいる人(子ども)について、ルソーはこんな印象的な言葉を述べています。
「知識への愛にとらえられ、その魅力に心をさそわれて、あれもこれもと追っかけまわしてとどまることを知らない人を見るとき、わたしは、海辺で貝殻を拾い集め、まずそれでポケットをいっぱいにし、ついで、また見つけた貝殻に気持ちをそそられ、投げ捨ててはまた拾い、しまいには、あんまりたくさんあるのでやりきれなくなり、どれをとっておいたらいいかわからなくなって、とうとうみんな捨てて、手ぶらで家へ帰って行く、そんな子どもを見ているような気がする。」
重要なことは、さまざまな学問をむやみやたらに教えることではなく、学問を愛すること、そして学問の方法を教えることなのです。
それも、強制によってではなく、楽しむことを通して。そうルソーは主張します。
2.奇術師のエピソード
第3編には、有名な奇術師のエピソードが登場します。こんな話です。
ある日、エミールとルソーは、水に浮かべたアヒルのオモチャを、自由自在に動かす奇術師のショーを見ます。
家に帰ってから、そのタネをあれこれ考え合う2人。その結果、エミールは磁石による仕掛けを思いつきます。
翌日、町に行って奇術師のショーに再び参加したエミールは、磁石を隠したパンを使って、奇術師のアヒルを自分で動かしてしまいます。
恥をかかされたかっこうになった奇術師は、それでもエミールを抱きしめてこう言います。「明日もおいで。君のその腕を、もっと多くの人に見せてあげよう」。
はたして翌日、意気揚々とショーに出かけたエミールは、しかしアヒルを自分の思い通りにまったく動かすことができません。
奇術師は、エミールの磁石入りのパンを取り上げ、磁石を引き抜いた上で、そのパンを使ってアヒルを動かし始めました。
それだけではありません。手袋でも、指の先でも、アヒルを自由自在に操るではありませんか。
さて、翌朝。
ルソーとエミールの家に、奇術師がやってきました。そして言います。
「わたしがなにをしたからといって、あなたがたは、わたしの技にたいする信用を失わせ、わたしの生活手段を奪うようなことをなさろうとしたのですか。〔略〕わたしはいつもいちばんすぐれた奇術を必要なばあいにそなえてとっておくことにしているので、あれのほかにも、わたしはまだまだ、さしでたことをするお坊っちゃんがたを閉口させるものをもっているのですよ。」
そうして、彼は昨日の手品の種明かしをしてくれました。
許しを乞うエミールとルソー。奇術師はルソーに言います。
「わたしはこのお子さんは喜んでお宥しします。なんにも知らないためによくないことをしたのですからね。けれども、だんなさま、あなたは、このお子さんの過ちをごぞんじのはずだったのに、なぜそういうことをさせてしまったのですか。あなたがたはご一緒に暮らしているのですから、年長者として、あなたはお子さんのすることに気をくばり、忠告をあたえなければならない。あなたの経験が権威となってお子さんを導いていかなければならない。大きくなって、子どものころに行なった不正に自責を感じながら、お子さんはきっと、それを注意してくれなかったあなたを責めることでしょうよ。」
ここでルソーが言いたかったこと。それは「虚栄心」の浅ましさについてです。ルソーは言います。
「虚栄心からくる最初の衝動がどれほど多くのつらい結果を招くことか。若き教師よ、十分に気をつけてこの最初の衝動を見はることだ。」
3.それはなんの役に立つのですか?
さて、この時期の学びにとって重要なことは、それが何の役に立つのか、子どもも大人もちゃんと理解していることだとルソーは言います。
「『それはなんの役にたつのですか。』これが今後、神聖なことばとなる。」
もし、教師がこのことを子どもに十分に理解させることができなければ、そればかりかごまかそうとするならば、教師は子どもの信頼を失ってしまうことになるだろうとルソーは言います。
そして次のようにさえ言うのです。
「わたしは、たとえこちらに非はなくても、わたしの理由を生徒にわからせることができなければ、こちらがわるいとみとめることにしたい。」
教師たるもの、肝に命じておきたい言葉だと思います。
もっとも、この時期の学びは、本来、教師の方で、あれをやれ、これをやれと言うべきものではないのだともルソーは言います。
「第一に、生徒が学ぶべきことをあなたがたが指示してやる必要はめったにない、ということをよく考えていただきたい。生徒のほうで、それを要求し、探求し、発見しなければならないのだ。」
4.実物教育
そのためには、余計な理屈やおしゃべりはやめて、「実物」をこそ大事にせよとルソーは言います。
「実物! 実物! わたしたちはことばに力をあたえすぎている、ということをわたしはいくらくりかえしてもけっして十分だとは思わない。わたしたちのおしゃべりな教育によって、わたしたちはおしゃべりどもをつくりあげているにすぎない。」
のちのペスタロッチ(1746〜1827)の、「実物教授」の先駆をなす教育思想です。
ここでルソーは、エミールと2人で森を散歩し、道に迷った時の話をします。そして、不安と空腹の中、太陽の位置をもとに自分たちの場所を割り出し、無事に戻ってこられた時の話を。
「かれがこの日の教訓を一生忘れないことは確実だと思っていい。しかし、すべてこういうことを、部屋のなかにいて、かりにこうだとしたらと言って考えさせるとしたら、わたしの話はあくる日にはもう忘れられてしまったろう。」
(受験勉強などで、)言葉だけを、よく理解もせずに頭につめこんでいる子どもたちを見るにつけ、ルソーのこのエピソードを思い出さずにはいられません。
5.ロビンソン・クルーソー
子どもを言葉に押し込めないため、ルソーは読書さえ積極的には勧めません。むしろ「わたしは書物は嫌いだ」とまで言ってのけます。
しかしただ1冊だけ、子どもにとって有用な本がある、とルソーは言います。
『ロビンソン・クルーソー』です。
「子どもは、島で必要になるものをはやくたくわえようとして、教師が教える以上の熱心さで学ぶことになる。役にたつことならなんでも知ろうとするだろうし、それ以外のことは知ろうとはしないだろう。」
まさに、知識は「役に立つ」ものであることを教えてくれる名作。
ルソーはそう言うのです。
6.貨幣について
たった1人のロビンソン・クルーソーの物語から、ルソーは少しずつ社会へとエミールの目を向けさせます。
しかし、社会の複雑なことについては、子どもにむやみに教えてはならないとルソーは言います。
そもそも大人も、その複雑さを十分に理解してはいません。
たとえば、貨幣について。
「事物のあいだの契約による平等は貨幣を発明させた。つまり貨幣とはさまざまな種類の事物の価値にたいする比較の表章にすぎない。そしてこの意味で貨幣は社会のほんとうの 絆である。しかしどんなものでも貨幣になりうる。昔は家畜がそうだった。貝殻はいまでもいくつかの民族の貨幣になっている。スパルタでは鉄が貨幣だった。スエーデンでは皮革がそうだった。わたしたちのところでは金と銀が貨幣である。
金属は容易に持ち運びができるので、一般にすべての交換を媒介するものとして選ばれた。そしてそれらの金属は貨幣に変えられ、交換のたびに大きさや重さをはかる労をはぶくことになった。つまり貨幣の刻印はそういう刻印のついた貨幣はこれこれの重さをもつということを示しているにすぎない。そして君主だけが貨幣を鋳造する権利をもつ。その保証が一国民のあいだで権威をもつことを要求する権利は君主だけにあるからだ。
この発明の効用は、こんなふうに説明すれば、どんな愚かな者にもわからせることができる。ちがった性質のもの、たとえば織物と小麦を直接に比較するのはむずかしいことだ。ところが、共通の尺度、つまり貨幣をつくりだせば、製造業者と耕作者とはかれらが交換したいと思っているものの価値をその共通の尺度にくらべてみることが容易にできる。」
貨幣とは、契約による平等という思想に基づいた発明である。そうルソーは言います。
ここまでなら、誰でもわかる。しかし、そんな貨幣が、なぜ単なる記号であることをやめて、それ自体で価値を持ってしまうのかといったことについては、哲学者にだって分からない。だからそんな複雑なことを、子どもに分からせようとはするなとルソーは言うのです。
7.品のある職業について
代わりにルソーが説くのは、まさに「契約による平等」の重要さです。この社会は、本来、人びとが契約(法)の下に平等でなければならないのです。
だから彼は、「身分、地位、財産の差別を認めない」とはっきり主張します。この時代にあっては、きわめて勇気ある発言です。
さらにルソーは、国家から年金をもらっている特権階級も認めません。間違いなく、当時の貴族や僧侶を指しています。
尊いのは、人びとに有益な仕事をしている人たち、すなわち、農民であり、職人たちなのです。
ルソーは言います。エミールにはむろん、職業選択の自由はある。しかしその際の方針は、人びとの役に立つということである、と。
そのような職業をこそ、品のある職業と呼ぶのだと。
以上で第3編は終わります。
第4編は、ついに青年期。
エミールに、性の目覚めが訪れることになります。
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