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眠りにつく前に

 寝る前に何も考えないことなんて、私はない。
夜は暗いから、夢の中に入る一歩手前みたいに自由だ。何をしていてもばれない。夢の中では自由がきかないけれど、眠りに落ちるまでは自分だけの筆を取ってなんでもリアルに描くことができる。ベッドに入って目を閉じてから、遠いママを想ったり、大好きだった彼の人を思い出したり、時には暗い夜に隠れて涙を流すこともあった。でももう、私はそれをやめてみた。だって夜は自由だ。もうここにありもしない過去を引っ張り出して悲しむのはもったいない。夜は限りのあるものだから。夜は今しかないし、私の生きる世界も今しかない。なんだって描けるとしたら何を描く?"大好きだった彼の人"じゃなく、"大好きな彼の人"とは運命で、彼が突然チュッパチャプスの花束を持って私の家のチャイムを鳴らして、寝ぼけ眼の私を見るなり頬が緩んで「結婚してくれ」と懇願するシーンを思い浮かべるのが、最近の私の、ロイヤルミルクティーのような夢を見る秘訣なのだ。うまくいくと自分では考えつかないような続きを見ることができる。例えば、滅多にスーツを着ない彼がわざわざクローゼットの奥からスーツを引っ張り出したり、整髪料を嫌う自然派の彼がわざわざYouTubeの検索エンジンを使ってイカした髪型を用意したり、自分では眉毛を整えない彼がお風呂の小さな曇った鏡を何度も手のひらで拭きながら危なっかしい手つきでカミソリを使って、ほったらかしだった眉毛が見慣れないいびつな長方形を描いていたり。私はそれを見て、怪我をしていなくてよかった、とホッと胸を撫で下ろす。スーツを引っ張り出す時、嫉妬したハンガーたちに手を挟まれなくて良かった。イカした髪型を用意する時、使い慣れないジェルで手が荒れなくて良かった。危なっかしい手つきでカミソリを使った時、綺麗な顔に傷がつかなくて良かった。結婚しよう、なんて滅多に使わないような、心の奥底にしまっていたのに使いどきがないあまり胃の端の方に移動させられて、気がついたら大腸まで追いやられていて、いくら使いどきがないとしても身体の中からは追い出せなかった素敵な言葉を、彼はわざわざ腸の下の下の方から引っ張り出して一世一代の思いで丁寧に口にしたというのに、見慣れない姿ながらも私がずっと愛してきた変わらぬ彼を、怪我をしなくて良かった、とただ見つめていた。何も言わない私に彼が不安がるのではないかと心配したが、怪我をしないでここまで来てくれた彼を見つめて頬を緩めていたようで、彼からは言葉を噛み締めているように見えたのだろう。「返事は?」と聞かれて「なんだった?」と返す。すると彼は呆れたようなホッとしたような息を吐いて、言葉の代わりに長い腕で私を包んだ。いつもなら感じないはずの強い巻きつきと、彼の36.6℃の体温を感じた。おかしい。夢が崩壊している!夢が自分を現実だと思い始めたらこのネバーランドはなくなってしまうのに!
 瞼を開くと隣で大好きな彼の人がスー、スー、と心地よいリズムで呼吸をしていた。鼻で空気を吸ったり吐いたりしている静けさにまた安心する。口呼吸じゃなくて良かった。今見ているこの景色も夢かもしれないし、さっきまで見つめていた見慣れぬ彼の姿も夢かもしれない。私も彼も同じ世界にこうして息をしていられるなら、どっちだって良いと思った。

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