幸せなのに空しいのはなぜ?


[Q]

  別にこれという悩みもないのに、わざと何か悩んだりします。考えることがなくなって心が空白になるのが恐いんです。気を紛らわすために本を読んだりして、何かから逃げているようです。

[A]

■私たちはただ生まれてただ生きている

   仏教はズバリ、その問題に答えようとしているんです。家庭もうまくいっている。友人関係も仕事にも問題は無い。それでも何か足りないと感じる。おっしゃるように自分ではどうにもできない何かがあるのです。
「生きるとはどういうことか、何か生きる意味があるのか」と自問すると、正直なところ私たちはただ生まれてただ生きている。それだけなのです。そう言われるとイヤな気持ちがするでしょう?    人間はそこを認めたくないのです。「何か尊いものがあるはずだ、人生は意味深い、命は素晴らしい」と思いたいのです。しかし事実は事実です。現実を見てください。私たち個人個人はつまらないことばかりやっているでしょう?    仕事では取引先や上司に偉そうに言われる。人づきあいでちょっと失敗したら大変な目に遭う。何とか頑張ってうまくやっても、毎日歳を取っていく。病気になってやがて死んでしまう。実際にやっていることを見るとどこが尊いのでしょうか?「尊い命」など、どこにも見つかりません。
   だからお釈迦様は「いい加減、ありのままの事実を認めたらどうですか」とおっしゃるのです。「人間はどうということはない、ただ生きているだけのことではないのですか」と。

■因果法則に直面する

   因果法則とは「物事は因縁によって変化していくだけだ」ということです。川の水が氾濫したのは大量の雨が降ったからにすぎません。世紀末でも何でもないのです。人がいきなり泣き崩れたのは、その人にとって期待しないことが起きたというだけのことです。そのうちに直ります。自分の性格はこれだとは決められないのです。好きじゃない人に会うと何となく暗くなる、気持ちが通じている友人を見ると明るくなる。その時の自分の利益によって人は変わっていくのです。立派なことを言っている人も次の日にはわかりません。私たちはただ、状況に反応しているだけなのです。
   ブッダの説かれた因果法則とは、人間の頭では理解できないほど難しいものです。しかし、単純に考えるとそんなものなのです。人が泣いているからといって泣き虫ではない。親切に振る舞ったからといってできた人ではない。何回も試験に合格したからといって頭がいいわけではない。一、二回試験に落ちたからといってバカというわけでもない。すべてその時その時の条件に応じた反応。それだけです。誰でも嫌なことをされると怒る。親切にされるとニコニコする。その時その時の反応にすぎません。「いったいぜんたい、あなたは何者か?」と聞かれても答えは無いのです。
   だから人間も、下等動物と何の変わりもありません。人間には知識があると威張っていますが、世界を見ると、その知識は人殺しや自然破壊の規模を大きくしているだけのことでしょう。人が必死でやっていることは、結局、懸命に次世代を育てる、それだけの人生です。次の世代がより良いことをしてくれるのであればそれでもいいのです。でも次世代も次世代を育てるだけ。その繰り返しです。生命は皆そんなものです。だからどうということはない、空しい、くだらない、バカらしい、何をやっても心から納得がいったということにはならない。それが事実です。

■人生は空しいという四聖諦の第一

「幸福になりたければ真実を知りなさい」というのがブッダの言葉です。お釈迦様ほど立派に真理を語った人はいません。仏教に四聖諦という四つの基本的な真理があるのですが、ここまで語った「生きることは苦しい、人生は空しい」というのが四聖諦の第一番目です。
   質問の中に「心の空白が怖い」という話がありましたね。なぜ空白が怖いかというと、刺激に反応することが生きることだからです。刺激がなくなると、生きるということが成り立たなくなるのです。死ぬのが怖いのは自然なことです。それで空白を怖れて本を読んだり、強引に友達に電話をしたりするのです。

《そうやって逃げていてはいけないと思うんですけれど、ではどうすればいいかわからなくて、そこから動けなくなるんです。》

   怖くなることも刺激です。怖くなるとそれに反応して何かをするでしょう?    逃げようとすることも刺激です。刺激を得たいというパターンからは逃げられません。これを「輪廻」というのです。それはこれからも、ずっと続くんです。

《そんな……。カラクリがわかっているのにずっと続けるのですか。それはなぜですか?》

■生き続けたい原因が四聖諦の第二

   なぜそのカラクリを続けるのか。それが二番目の真理です。これほど生きることは空しいのに、人間は必死で生きていきたいんです。ここに矛盾があるんです。生きることは空しいと思っている人でも、どこかに「生きていきたい」という気持ちがある。だからこの悪循環を限りなく続けるのです。
   生命には「生きていれば何かいいことがあるんじゃないかな」という期待感があり、それを欲といいます。専門用語では「渇愛」です。そのために輪廻から逃れられません。死への恐怖感もそこから出てくるのです。
   生きているとたまに楽しいことがありますね。まれに「幸せだ」と思う瞬間も無いわけではない。それが忘れられないのです。例えば子育ては重労働で大変苦しいのに、赤ちゃんが時々ニコッと笑ったら疲れが取れる。あの苦労がチャラになるんです。そのように、人生の中にはたまにちょっと「いいな、楽しいな」という時がある。それで騙されてしまうんです。

《もしそれをありのままに見て損しているとわかったら、生きているのがもっと空しくなって、死にたくなるんじゃないですか?》

   死んでも解決にはなりません。因果法則では死んでもエネルギーは消えてくれないのです。

《死んでも解決にならないのであれば、いったいどうすればいいのですか?》

「ではどうすれば?」の答えが四聖諦の第三・第四

   先ほど言った「渇愛」という執着を捨てればいいのです。渇愛を捨てた瞬間に、苦からの解放ということを初めて味わうんです。それが三番目の真理です。そこにはまるっきり人間の脳細胞で理解も想像もできない幸福感があります。そこに救いがあるのです。
   それを「悟り」と言いますが、悟りとは何かと知ろうとしても、今の脳細胞ではわからないのです。でも、それではどうしたらいいのか困りますね。だからお釈迦様は、そこに至る方法も説かれているのです。それが八正道という四番目の真理です。その道によって、自分で救いを獲得するんです。

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