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トーキョー・フォリーズ
早くも今年のうちのひと月が終わる。
毎日、気温が低く感じたのは私の大病した体調のせいなのか、それとも誰もが寒く感じる冬の日が続いたのか。
不要不急の外出は控えるべし等々、退屈な日常とはかけ離れた毎日が続く中では、今日の天気に関心を向ける気にもならない。眠れば朝がきて、日が傾いた後には夜がくる。ただその繰り返しだ。
1月の終わりの1週間は、なけなしのやる気も凍りついてしまったらしい。冷蔵庫の中身を補充するためにスーパーマーケットへ出かけるか、期限が迫った本の返却に図書館に出かけるかのどちらか一つをこなすと、その日の必要事項の半分は終わったような気になっていた。
文章を書く気にもならず、ただ食事を作り、食べ、洗い物を済ませて、あとは本を読むだけで1日が終わった。
私の数日間が怠惰に見えるならば健全だ。健全が良いことばかりとはいえないが、少なくとも不健全よりはいくぶんマシなのだろう。そうでなければ健全さの立場がない。
新しい一年が始まって1ヶ月。今月は22冊の本を読んだ。
もちろんすべてがページをめくる手が止まらないほど面白かったわけでもないし、学ぶところが多かったわけではない。半分は途中で読むだけ時間の無駄で、その3分の1は手に持った本を壁へ投げつける衝動を抑えねばならなかった。
すべての本が有意義なものだと信じられるほどの純真さはとうになくなっている。失った純真さと引き換えに絶望する手前で立ち止まる知恵を手に入れたのだ。交換条件としては悪くない。
22冊の本の中には、もう繰り返し読んでいるものもあった。新たな書き手を探して失望を繰り返すより、私の中で価値の定まっているものを再び読む方が効率が良いというものだ。
「それを保守的と言うのだ」と指をさして嘲る人間もいるに違いない。だがその本を初めて読んだ時の私と今日の私はすでに同じではない。さして変化がないのは見た目と名前くらいのものだ。そして内面は彼らからは見えない。
ポール・オースターの『ブルックリン・フォリーズ』を3日かけて読んだ。
主人公と重なるところもある。だが私と主人公が似ているのではなく、人生は多かれ少なかれ似通ってしまうだけのことだ。
いくら私が自分の人生は特殊だと思っても、世の中にはありふれた人生の一つでしかない。私はそのことにささやかな落胆とそこそこの安心を見つけ、落胆よりも安心が大きいことに少なからず驚いた。
「音楽は16歳から24歳までに聴いたものを繰り返すだけで、一生分賄えるもんだよ」
昔、足繁く通っていた喫茶店の老店主はそう言っていた。若い私には到底信じられないことだったが、今になってみればわかる。
だが、どうやら小説はそれほど大きくは変わらないようだ。
もちろん私自身も。
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![樹 恒近](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/24635482/profile_91609b71ba478f475be873f49bee3d12.jpg?width=600&crop=1:1,smart)