見出し画像

メモすること

今や「メモを取る」といったらスマートフォンのアプリか、メモがわりに写真撮ってオシマイなんてこともあるわけだが、モノ書きの哀しいサガか、僕は相変わらず「メモ帳に手書き」から離れられない。

手書きすることの良さを挙げれば、それらしき事はいくつもあるのだけれど、万民共通の利点なんて原理主義的なメリットがあるわけじゃなくて、単純に僕が手書きを好み、性格が手書きでメモすることに向いているだけのような気がする。

例えば……

昼寝、夢
空飛ぶ豚
昼間なのに夕焼けのような赤さ。雲はない。
所々にアーチを描かない一直線の虹。
背景が夕焼け空の色
なぜか虹はちゃんとわかる
プリズム
狂気
ピンクフロイド

……みたいにスマートフォンでメモしてしまうと、そこで満足してしまう。なんだかひと仕事終えたような気分に感じになってしまうのだ。
(このメモはサンプルに適当にでっち上げたものです)

行の頭も、行間も、フォントも、何もかもがきれいに揃っている。それが僕の性格には悪影響を及ぼしてしまうような気がする(悪影響ってのは大袈裟だけど)。

手書きするときにはきれいさなどはまったく意識しない。
頭に浮かんだことを紙に移動させることが最優先なので、余白を見つけては、前後の脈絡など関係なく書いてしまう。
当然、メモは乱雑になる。
あとになって見直すと「どこからこれが湧いて来たんだっけ?」と首をひねることも少なくない。

脳の中でシナプスがどういう仕組みで枝を伸ばして接続していくのか、仕組みは知らないけれど、意外にトライ・アンド・エラーで接続先を探しては引っ込むなんてことを超高速てやってる気もする。
だとしたら、乱雑なメモを見直して、断片の繋がりを想像し直すのは、脳内の情報伝達に似ているようにも思える(高度な自己正当化)。

メモなんてのは、書ければ広告の裏側だろうが、手のひらだろうが、なんだっていい。
「どこそこのノートじゃないと」みたいなこだわりがないものだから、結果としてノートやらカードやら、いろんなものに書いたメモがどんどん溜まっていく。
最近は、統一感皆無のアナーキーなメモをどう制御するかという新たな問題に直面している。
書いたメモをスマホで撮影することだけは断じてすまいと堅く誓っているのだが、この甘美な誘惑はなかなか強敵だ。

いいなと思ったら応援しよう!

樹 恒近
ぜひサポートにご協力ください。 サポートは評価の一つですので多寡に関わらず本当に嬉しいです。サポートは創作のアイデア探しの際の交通費に充てさせていただきます。