読み手もまた試される
駄文雑文を書いていていつも思うのは、どこまでわかりやすくするかだ。
誰が読んでもわかるように —— できるだけ読み手のバリアフリー化を目指すかどうか、どこで線を引くのが適正なのかが気になることがある。
先日、頭に浮かんだ『獏屋』という短文を書いたら、友達から「わかりません」とメッセージがきた。
結論から言うと、その友達は獏を「バク」と読むことも、伝説で悪夢を喰らうということも知らなかった。
「バクとは……」と説明するのは簡単だけれど、それをやっては途中で「犯人はこいつ」と書かれている探偵小説みたいなもの。
講談は噺の最中に上手に解説を組み込んでいくけれど、落語でいちいち解説しては台無しだ。
読み手が試されるというと大袈裟だが、物語を楽しめるかどうかは読み手の中に物語が反応するだけの素材の有る無しに依存する。
複雑に入り組んだところや、あまりに特殊なことについては説明もするだろうが、全部が全部ではない。どこかで「これくらいは知っててもおかしくないよね」という前提に立って書くことになる。
そういう意味では不親切なのは間違いないけれど、自動ドアみたいに誰が立っても開くものではないのだ。
前にも書いたけれど、今年掲げたモットーの一つは「わかりにくさを恐れない」。
こうして目の前にわからなさが出てくると、わかる奴にだけわかればいいという割り切りは結構重要な感じがしてきた。
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