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利己的な利他心

なかなか簡単に外出というわけにもいかず、自然と読書をしたり、皆さんの書かれたnoteを読む時間が増えている。
前にも書いたことがあるけれど、面白く読ませていただけれるものも、思わず「上手いなあ」と唸ってしまうものも、痒いところに手が届くような役立つものもあって、いろいろと助けられてます。

このところ引っかかっているのが、「役に立つことを書こう」と頑張りすぎてないかということ。
「私には役に立つことなんて書けないので、すみません」と誰に謝ってるのかわからない、そもそも謝る必要なんてないのに、なんだかかわいそうだなあとついつい思ってしまうのだ。

僕は社会に迷惑をかけない範囲ではどこまでも利己的でいようと思ってるもので、書いたものが結果的に誰かの役に立つことがあるにしても、書く前から「この情報は書けば必ずみんなの役に立つ」なんて高尚なココロザシはない。
自分の身から出てくるものを淡々と書いているだけでも、積み重ねた時には必ず何かを指し示すものになっているという確信がある。
もちろん罵倒や愚痴を並べ立てる排泄のようなものにはしないようにしているけど(それは社会にとってはある種の迷惑だろう)、考えたことを真ん中において、オブラートで包んだり、生クリームでデコレーションして、ショーケースに並べているわけだ。
いわばソフィスティケートされた本音ということになるのかもしれない。

役に立つことを書くのは大変だし、重要なのはわかっている。
そうして書かれたものがあるのとないのとでは、大きな違いがあることも理解している。
ただ、一見「誰かの役に立とう」という利他的に見えるものが、「役に立ちたい自分」という利己的なものと重複して見えてしまうときがあって、そうまでして誰かの役に立つことを必死で探すより、日々感じたことを掘り下げて書かれた日常の方が、一読者としては発見も多くて、読み甲斐があるもの。

別に無理やり笑わせようとしなくても良いし、難しいことを書く必要もない。自分の身の回りで起きている様々なことというのは、自分にとっては平凡極まりないものでも、遠く離れた誰かから見ると、なかなかどうして興味深かったり、面白かったり、想像もしなかったものだったりするものなんじゃないかと思うのだ。

と、最もらしいことを書くことで、自分が書くことへの予防線を張っていると告白しておこう。
こういういやらしい目論見が誰かの役に立ちますように。

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樹 恒近
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