春になるといつも / "Don't Stop Believin'" Journey
3月も終わりである。
一年の4分の1が終わる。ただうつろい流れている間にまた時間は過ぎていた。進歩も進化もなく。
生物の腕が翼に変わったり、ヒレに変わったりするのには恐ろしいほど長い時間がかかっている。それを傲慢に10万年と4文字で表してしまえば、途端に10万年の長さはどこかえ消え去ってしまう。歴史修正主義なんか目じゃないくらいのすさまじさ。
でも「恐ろしいほど長い」時間の中で進化してきた生物たちは自分たちの変化に気が付いていたのだろうか。
変わらない毎日だけが続いていたのだと思う。今日と同じように。
世代が引き継がれ、その合間合間に起きる遺伝子のコピーミス、エラーみたいなものが繰り返されて、その蓄積を「10万年」と4文字に強引に圧縮してしまった時に、押しつぶされた膨大な時間に我々は「進化」や「退化」を見るのかもしれない。
「あまりに毎日が続いたので、僕は今日を見失った」
昔、読んだ小説にそんなセリフがあった。
見失う以前に、日々の中では今日など取るに足らないものなのかもしれない。今はそんなふうに思う。
かつてとは違う受け止め方。これもまた変化だ。
全速前進したつもりの今日1日は、「10万年」の前にはきっとただのストップモーションにしかならないのかもしれない。
でも重要なのは全速か微速かではなく、前進したかどうかだ。
言うまでもなく。
* * *
春は浮かれる者と沈み込む者のコントラストが一年の中で最も濃くなる季節。先に書いたような茫洋とした文章を、10代の僕は毎年のように書いていた。
未来があまりに広すぎて、どっちへ向かっていけば良いのか見当もつかない不安と、辿り着きたい場所と現実とのギャップに、春が来るたびに慄いていた。春は苦手だった。
サンフランシスコ出身のジャーニーがヒットアルバム『エスケイプ』をリリースしたのは1981年の夏こと。
前年の師走にはジョン・レノンが射殺され、苦手な春をどうにかやり過ごして夏を迎えたところだった。
この年の夏、僕にとっては重要なアルバムが2枚リリースされた。
1枚はジャーニーの『エスケイプ(Escape)』、もう1枚はローリング・ストーンズの『刺青の男(Tattoo You)』だった。
極めて正しく言えば、この2枚のアルバムの最初の曲、「Don't Stop Belivin'」と「Start Me Up」、さらに言えばこの2つの曲のイントロのリフの乾いた音にティーンエイジだった僕はなぜか救われた気分になったのだった。
「この曲のこのリフだけで自分はあと10年は生きていける」
理由も根拠もわからないというのに、僕はなんの迷いもなくそう信じることができたのだった。
あの時の僕は何をどうして信じることができたのか、今もまったくわからない。でもそういうことは10代の誰にもやってくる、起こるべくして起こる瞬間なのだ、きっと。
翌年から、春が来ると必ずこの2曲を聴くようになった。
今日は、今さっき、偶然にラジオから流れてきた。
春が来たんだなと実感した。
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