世界は決して思い通りにはならない
人生は思うようにならない。
思うようにならないことを大半の人間は不幸だと思うらしい。
思った通りになどなったことがないから、現実にそんなことが起きたらどう思うのか想像もできないが、嬉しいのは初めだけで、早々に飽きるのではないかと思う。
思い通りにことが進み、思った通りの結果が出るのだとしたら、「物は試し」も「出たとこ勝負」も「一か八か」も「結果オーライ」も、すべてなくなってしまうのだ。これほど退屈なこともない。
同じように不平等や不公平を嘆く人も多いだろう。
誰もが万事平等で公平な世の中は一見素晴らしい世界のように思えなくもない。でも現実にそうした世界を作り出そうとしたら最大公約数よりもさらに低いレベルでの平等や公平に甘んじる必要が出てくるような気がする。
全員が一線上に並んで、誰も突出していないどこまでも平坦な世界、まったく起伏のない世界で誰が成功を夢見たり、誰が向上心を抱けるのか。
不公平や不平等を推奨するわけではない。
世界はスタートした瞬間からすでに不平等と不公平を混ぜ込んで出来上がっているのだから、世界から不公平たちを抜き出すなど、ハンバーグの中から玉ねぎだけを抜き出すより難しいと思っているだけだ。
そんな難題に労力を費やしている暇があるなら「そういうものなのだ」と受け止めてしまう方が簡単だ。決して諦めるということではなく。
個人的には思いのままにならないことも不公平も人生を面白くするための仕組みぐらいにしか思っていない。
自分がこれまで思い通りに過ごしてきたということもないし、大成功はほぼなく、小さな幸福をいくつかと、大小様々な失敗やミスチョイスを繰り返し、その報酬として数えきれないほどの後悔を背負ったり抱えたりしてきた。
それらの中には「あの時に戻れたら、同じ間違いは絶対にしない」と今でも堅く心に誓うほどの後悔もあるけれど、それもまたここまで人生を転がしてきた要因、燃料の一つなのだ。
感謝なんてこれっぽっちもする気はないが、失敗や後悔、ささやかな幸福等々すべてのことは、いつか起きるかもしれない「思い通りになった瞬間」に周りに飛び散る金銀の紙片のようなものに変わるのだと信じている。
一生の間に一度か二度しか起きない奇跡のような瞬間ならば、飛び散る紙片はできるだけ派手に舞ってくれた方が楽しい。
そう思うと不公平やら何やらもクラッカーを派手に鳴らすには必要なことだと思えてくるというわけだ。
今朝見た夢がやたらと現実味があって、なおかつ不条理この上ないもので、目が覚めた瞬間から最低な気分だったもので、せめて今夜眠る前は、無駄に明るく、過剰にポジティブな気分を装うべく、意味のない文章を書いてみた。
とはいえ私はかなり本音に近いところで書いたようなことを書いた通りに思っている。だから笑われる。
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