親不孝、親がもたらす不幸、認めること、諦めること | 日日雑記 / Aug.23
いろいろと考えてしまうことが多くて、朝方まで眠れないままだった日曜日。
空気の芯まで暑かったこれまでとは様変わりして、少しだけひんやりとしたものが真ん中に残っている感じになった。
結局のところ僕が抱えるオブセッションというのは、どこまでいっても親子関係にあり続けるわけで、後悔や悔恨を通り越して、もはや自分で自分にかけた呪いのようになっている。
多かれ少なかれ人間はそうした呪いを背負ったまま、あるいは一つ一つ投げ捨てていくことによって大人になっていくのだろうが、親自身が持っていると思い込んでいる全能性(親の言う通りに成長していけば我が子は間違いなく幸福になるという神話みたいなもの)から、親自身が脱却できることは稀なことのように思う。
親離れ子離れともまた違って、そもそも自分に備わっている権能の不在に気づくということだから、よほどのことがない限りは気づかないままなのだろう。
僕の場合は、随分と子供のうちに、想像力の届く範囲が両親よりもはるかに広くなってしまったことが原因だったのだろうと思っている。
息子には、両親の理解の及ぶ範囲の外まで自分の未来の在処が見えているのに、彼らの目には何も見えない。
見えないどころか、そんな世界があるとすら想像できない。
親としては、彼らの描いた理想に向かう線路を息子が進んでくれればそれでよしなのだろうが、彼らが遠くまで繋がる長い線路と思い込んでいるものは、実は遊園地のお猿の列車に過ぎないことを、息子はわかってしまっている。
どれだけ「これは遊園地のお猿の列車なんだよ」と子供が言ったところで、「まだ子供なんだから」「お猿の列車であるはずがない」と、思考を拒否することになる。
やがて親が先にこの世を去る頃には、息子の選択肢の幅は忍者屋敷の仕掛け廊下のように狭まっているわけだ。
幸いにして僕には子供はいないのだが、もしも子供がいたら、間違いなくやりたいようにやらせていたはずだ。
何をやりたいと言っても、成功も失敗も苦労も賛美もすべて子供自身のものだと言い含めて、信頼とか確信とはまったく無関係に、やや無責任に応援をしていただろう。
僕の理解できる範囲など、世界のうちのほんの僅かでしかないだろうし、その程度の浅い想像や使い古された価値観で、今を生きる人間を縛ること自体、ナンセンスなのだ。
やりたいようにやってみるしかない。
やらずに後悔するより、やって後悔する方が先に繋がるのは今も昔も同じだ。
わからないことはわからないと認めることと、世の中にはどれだけ考えても理解できないことがあると認めることこそが、大人の条件なのだと、我が身にもたらされた呪いを思っているうちに気がついた。
大人にあって子供にないものの中で、役に立つものと言ったら知恵だけだ。一度ついた知恵は長く役に立つ。
その代わり過去の経験なんて何の役にも立たない。
経験の賞味期限はとにかく短いのだ。
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