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新しいものなど、もはやどこにもない

 小説に限らず、何かを創ろうと考えた時、思いついたアイデアはすでに世の中に存在していると考えた方が間違いがないように思う。
 目にしたことはなくても、これまでに誰かがどこかでやってしまっている。「これこそ自分の考えたオリジナルなものだ!」と内心勇んだところで、それと極めて似た何かはすでに作られている。
 見たこともなければ、ネットで探しても見つからないのに、どうしてそんなことが言えるんだ、と反発されるかもしれないが、所詮は同じ人間が考え付くこと。残念ながら常識の範囲で許容可能であるものならば、それは誰かが先にやってしまっている。

 問題は、そういう前提に立った時、同じモチーフのものを作るべきか否かというところにある。
 真に新しいものを作りたいなら、模倣と取られないように潔く捨て去って、まだ手のつけられていない未開のジャングルへ足を踏み入れるべきだろうが、僕はなんであれ作りたいと思ったものを作ればいいと考えている。
 できあがったものが先にあるものの完コピでは仕方がないし、明らかに模倣・盗作だと受け取られるようなシロモノを作ってはダメだけれど、そうでなければまずは作ってみるに限る。
 同じ人間が考え付くのだから似たようなものになるのは定めかもしれないけれど、先達と自分とは同じヒト科ではあっても同一の人物ではない。模倣・盗作、あるいは不幸な一致でもない限り、別の人物が作るものは違ってきてしまうものだ。そこまで丸かぶりするようなことがあるなら、それはかなり奇跡に近づいているアンラッキーなんだと思う。

 考えてみれば時代小説なんてのはモチーフ被りのオンパレードだ。
 権力層の人間が悪を懲らしめ、市井の人々の暮らしを救う暴れん坊将軍、水戸黄門タイプか、捕り方や奉行等々の司直が正義を為す鬼平犯科帳、大岡越前、遠山の金さん、銭形平次タイプの捕物帳か、法の裁きをかいくぐる悪を法の外で懲らしめる藤枝梅安や鼠小僧タイプ、市井の人々が助け合ってどうにかこうにか困難を乗り越えていく人情噺的な物(平岩弓枝の「御宿かわせみ」などはこれに当てはまる)に分類できてしまう。
 あとは池波正太郎の「剣客商売」のような剣豪ものや、座頭市みたいな「股旅物」もあるけれど、時代小説を書こうとしたら、主役が将軍でも老中でもなく大目付だとか、町奉行ではなく勘定奉行だとか(勘定奉行が悪を懲らしめる小説ってのはお目にかかったことがない・笑)、それぐらいの違いがあるだけで、おおよそいずれかの中に分類されてしまう。
 それでもやはり出来上がるものはそれぞれ違うし、それぞれに好みも分かれる。
 つまりはモチーフがどれだけ被っても、作る意味はちゃんとあるということなのだ(と、自分を励ますために書いてみた。時代小説を書くわけじゃないけど)。

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