書を捨て、町に出ても文章は書ける。出なくても書ける(修訂版)
コロナで外出を控えなければならない今は、できるだけ多くの時間を文字を、文章を書くことに費やすようにしている。
書くことは机に向かってれば済むと思われがちだけれど、実際はなかなかの肉体労働だ。びっくりするくらい疲弊する。
目は霞むし、頭はボーッとしてくるし、対抗するためにコーヒーやら甘いものやらを補給していると、今度は「やはり戦線維持は兵站が重要だな」と、無意味な想像に頭が向いてしまったりもする。
書き続けていると外出の頻度が下がり、消耗するわりに運動不足になり、人と喋る量が減り、側から見ればただの引きこもり、社会的落伍者寸前みたいなサイクルに入りそうで怖くもある。
無論、書く作業はとても個人的なことだから、書いている間は人の環境に身を置かねばならない。
「問題は社会との関わりを持ったまま孤絶する巧みさを持てるかどうかにあるのではないか」などと、これまた飛躍し過ぎのことを考えたり。
今更ながら自分の性格を振り返ると、僕は子供の頃から「ADHD」の気配があったのではないかと思う。もちろん重篤ではなかったにせよ、今でも一つところで長い時間集中して何かをするのは不得意だ。
場所を変えながら同じことをし続けるか、同じ場所でコロコロとやる事を変えるかの二択みたいなところがある。
書くことについては、内容と目的を変えても同じ場所で書き続けるのはどうも上手くなくて、場所を変えるしかない。
昨今はノマドなんて格好いい言い方をして、正当化に成功しているようだけれども、要するに自前の落ち着く先を持たぬまま、フラフラとあちらこちらを渡り歩いて、軒先で雨宿りをしながら仕事をしているようなものであろう。
もちろん仕事などできさえすれば、公園のジャングルジムのてっぺんでしようが、地下鉄の駅のベンチでしようが、どうでも良いことだ。言い方はさらにどうでも良くて。
現代のツールは、文章を書くための最適化をすでに実現しているのではないかと思うほどに便利で、調子が良くなくても、ベッドに横になったまま、スマートフォンのテキストエディタを使ってコリコリと書くことだってできる。
場所も道具も関係ないとなれば、世界のすべての場所はまったくのイコール。書を捨てよ町へ出ようと言った時には、こんな時代が来るとは、寺山修司も思いもしなかっただろう。
皮肉を込めて素晴らしい時代ではないかと言っておく。