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エッセイの名人上手

 書く方面のことはさておき、読む側では小説熱が一巡して、いまは対談やエッセイなどを読むことが増えている。
 noteでエッセイというタグをたどると、そこにはとんでもない量のテキストが見つかる。それだけ障壁が低く、ある意味では誰にでも書くことができる気楽な楽しみなのだとわかる。

 世の中にはエッセイスト、随筆家という肩書きを持つ人がいて、その中には「エッセイの名手」と呼ばれる人がいる。
 エッセイの名手というのは何を持って名手というのかわからないけれど(遠く離れた的を撃ち落とすわけでもないし)、読むと確かに上手だなと感じる。
 もちろん書かれた文章の雰囲気やクセによって合う合わないはあるのだが、書かれたエッセイをシャーレの中の観察物のように一歩引いて眺めると、やはり上手いという言葉以外ない。名人上手というか、巧者というか。でも文章の巧拙だけで名手か否かが決まるとは思えない。
 やっぱり目の付け所の良さ、アンテナの敏感さがキモなんだろうと思う。

 その時々のニュースに対して自分がどう感じるか、何を考えるかを観察するのも手なのだろうが、名手たちに共通するのは、実はたわいもないことに目をつけて書いていることなんじゃないか。
 世の中のどこにでもあること、誰でも目にすること、当たり前すぎて誰も気にしないことに引っかかりを感じること。
 歩行者用の信号はどうして上が赤なのか、「止まれ」では正面に向いているピクトグラムが、青信号になると横向きに歩き出すのはなぜか。
 それがわかろうがわかるまいが、生活には微塵も影響を及ぼさないことをつまみ上げて、エッセイに仕立てる。
 そこには信号機が比喩になるような何かをすでに抱えていたり、信号機と似たような何か(物理的な構造ではなく)を見つけて、反応するんじゃないかと思う。

 と、ここまでなら誰にでもできる。ある意味、作業手順や方法の心得みたいなものだから、そのマニュアル通りにやれば誰にでもエッセイを書くことは可能だ(理論値みたいなもんだけど)。
 ただ、そうして書かれる膨大なエッセイと名人上手の書いたものには明確に差異があるのも確か。両者を分けるのは何なのだろうかとどれだけ考えても、思いつくのは書き手自身の独特な感性に行き当たってしまう。

 「独特な感性」と書けばなんだかとても聞こえはいいけれど、多少の悪意を混ぜて言い方を変えれば「ちょっと変わってる考え方」にも「普通じゃない捉え方」にもなってしまう。
 昔から天才となんとかは紙一重というけれど、名手となんとかが紙一重なのだとしたら、エッセイの名手になりたいと願うのもなかなか微妙に思えてくる。
 鴨長明、吉田兼好、清少納言。
 さてさて、どんな人だったのやら。

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