少女十勇士 番外編「Yの悲喜劇」
「やっぱり志羽家は姉さんが後を継げば良いんだ」
「それは出来ないんだって、何度も話したでしょう」
「わかってるけどさ……」
志羽千鶴と志羽秀一、この姉弟のこのやり取りを飛代子が耳にするのは三度目ぐらいになる。
夏季休暇に入ってすぐ発った旅の途中で、飛代子は従姉妹の霧子、盟友の安奈と共にこの熊本の志羽家に数日逗留させてもらう事になった。
その数日の間に言葉とニュアンスを少々変えながらも繰り返し聞いた会話だった。
志羽家のいくつかある和室の応接間の一つが、滞在中の飛代子達の憩いの場になっている。今日も夕飯の後に自然に五人は集まったのだが、そんな折りの志羽姉弟の会話である。
霧子は志羽家の姉弟とは家族ぐるみのつきあいで、飛代子の実家とも浅からぬ因縁を持ってはいる。その間柄から霧子は志羽家の事情に通じているが、今夏はじめて訪れた飛代子はごくごく庶民の感覚から首を傾げている。安奈は「他人の家の事は放っとけば?」という態度だ。
「あの、千鶴さんがお家を継いじゃ駄目なんですか?」飛代子はむしろ素朴な疑問として訊いた。霧子が目で窘める。それは余計な指出口だというのだ。
だが、それは千鶴が制した。
「いいのよ。私も昔同じ事を考えたから」
千鶴にしても、かつて、何故自分ではいけないのだろうと考えたわけだ。
「別に秀一さんが頼りないとは思わんけんど」と断った時点で思ってると言ってるのと変わりないのだが「向いてる人が向いてる事をやるのが一番だと思います」当の秀一の目の前でそう結んだ。
「僕もそう思うよ」
秀一は拗ねているようだ。
「確かにそうね」
千鶴も言う。歴史の、特に封建社会の悲劇の多くは、政治に向かない人が政治に携わった事、戦争に向かない人が戦の指揮を執った事などに拠るのは事実だろう。
であるが、そうしたデメリットがあるのを知ってなお守らねばならないものがあると考えた人々が重んじた事実があった。霧子と千鶴はそれを知っている。
「でもね、資質がどうこうではなくて、事は血筋の命脈の問題なの。男子が継がないと血統が保たれないのよね」
「?」
「遺伝学上の問題なんだ。生殖が減数分裂で行われ、性別決定因子が男子の側にある以上、血統を保とうとすれば男系にならざるを得ない」
「あははは、言ってる事さっぱりわかんない」
さらっと霧子に小難しい事を言われ、飛代子はとんと理解に至ってない。
「じゃあ、この際だから飛代子にも解る様に説明しよう」
霧子がにっこり笑って言い、飛代子は逃げ腰になり、霧子に睨まれてやむなく座った。
「減数分裂は知ってるな?」
「授業でやったけど、よく覚えてない…」
飛代子は愛想笑いの様な苦笑いをする。
「じゃあ、そこからな。生き物が細胞分裂する時、普通は同じものを複製する。だが、生殖細胞だけは減数分裂をして一対の染色体を半分に分けて分裂する。それは何でだ?」
「ええと、誰かのもう半分ことくっつけなくちゃいけないから?」
「そう、組み合わさった時に一個に戻るからだな」
かなり単純化した理解ではあるが、今はその理解で充分として話は続けられた。
「雄の性染色体はXY。雌はXX。だからYが混ざってる時だけ雄になる。これを雄ヘテロ型というんだが、この性別決定因子が片側だけにあるというのがポイントだ」
「片側……」
より正確には性染色体自体ではなく、性別決定遺伝子(SRY=Sex-determining region Y)を含んでいるからY染色体が性別決定因子足るのだが、そこは端折った。言っても飛代子が余計混乱するからである。
同様にSRYを有しながらそれが性別決定に関与しない生物というのも存在するが、それら例外的な事例もオミットした。
まずは飛代子に理解させる為、哺乳類一般の事例に絞って話を進める。
「XYとXX。YYは無いの?」
素朴な疑問だ。
「あるよ。だけど、性染色体異常の一つとしてだ。Yが過剰でXが欠損している状態だからね。生存に必要な遺伝子がX染色体に含まれているので、それが無いから受精後に生存が出来ない型だね」
「ふうん」
「先に進めて良いかな?」
「はーい」
何だか授業っぽくなって来た。
霧子から飛代子への講義に千鶴が講師補助として付き添い、秀一も安奈も横目で見ながら聞くとは無しに耳には入れているといった感じだった。
「じゃあ、それを踏まえて特定の人物のY染色体を後世に残す事例を考えてみよう」
霧子は千鶴から便箋をもらうと、さらさらと何やら書きつけた。
「Aさんという殿様の血統を残す事にしようか。ここを初代と考えるから、A殿の性染色体XYには、Aを付けてAXAYとしよう。A殿がもらうお嫁さんはB姫。B姫も当然BXBXとする。これが第一世代」
霧子が便箋に書いたA殿とB姫の間に棒線を引いた。
「この第一世代の前の世代は無視して考えるから、この二人に生まれる染色体のパターンはたった二つ。男ならBXAY、女ならBXAX。何人若君を産んでも、何人姫を産んでも全員がこれ。その第二世代は当然全員がA殿の血を引いている」
「そっか、そうだよね」
飛代子は当たり前の事なのについそうじゃない可能性を考えてしまった。
「姫が浮気しない限りはね」と安奈が茶々を入れる。こういう時だけ嘴を挟むのが彼女らしい。
「問題は第三世代。第二世代をC若BXAY、D姫BXAXとして、それぞれにE姫EXEXとF婿FXFYの配偶者を迎えよう。ここで家系は男系と女系の二系統に別れ、子供は第三世代になる」
霧子は書いた図を世代別に区分けして見せた。
「C若E姫の子供は、G若EXAYとH姫EXBXとシンプル。対して女系のD姫F婿の子供はというと姫はI姫AXFXとJ姫BXFX、若君はK若AXFYとL若BXFYと男女の半分ずつがもうA殿の血を引いてない」
「ありゃ」
「現実にはパターン全部が産まれてくるとは限らないわけだから、女系になった途端、生まれてきた子が初代の血を一切引いてない可能性も出てくるわけだ」
「えーっ、だってお孫さんなのに?」
この事実には正直飛代子も驚いた。もっと後の世代で血が薄れるのは仕方ないにせよ、この段階でとは思わなかったからだ。
「よその血を入れるというのはそういう事なんだ。対して男系の方は男である限りは絶対A殿の血を引いている」
「次の世代でもやっぱりそうなのよ」と千鶴。それに飛代子は「ホントに?」と食い下がった。
「じゃあ、かなりややこしくなるけど第四世代を一つずつ見てみようか」
霧子は綴りから便箋を剥がして次の一枚に更に細かい系統図を書き出した。
「男系G若EXAYとM姫MXMXの間の子はN若MXAYとO姫MXEX。女系その2のH姫EXBXとP婿PXPYの子供は、Q姫EXPX、R姫BXPX、S若EXPY、T若BXPYと一人もA殿の血を引いてない。一方、女系I姫AXFXとU婿UXUYの子はV姫AXUX、W姫FXUX、Z若AXUY……」
……と、懸命に聞いていた飛代子だったが、この辺りでもう付いて行けなくなっていた。
「あははは、もーちんぷんかんぷんですぅ」
「……とまあ、こんな具合だ。説明しているこっちも疲れる。これが数十世代続くのを想像してみろ」
「あははは、気が遠くなるぅ」
冗談抜きで、飛代子は本当に気が遠くなりそうな気がした。
「ここでもう一つB姫の血に注目してみると、広く分布はするけど半分に留まり、同時にF婿P婿U婿の男系になってしまっているのも判る」
「なるほど」
「これが生物の多様性だな。X染色体は組み合わせの仕組み上、多様性をもたらすものなんだ。多くの哺乳類は雌の身体がベースで、雄は性別決定因子で雄に変化する生き物だから、ある遺伝形質を固定化させようとするなら特定のY染色体の維持という形を採る事になる。これはそういう仕組みだからであって、性差別でもなんでもない」
「えーと、また難しくなって来た」
「人間が雄ヘテロ型の性決定をするタイプの生き物である以上、さっき見た様に男系基準でないと直系の血族保持が出来ないという事だ。逆に多くの鳥類やウナギとか魚類の一部は雌ヘテロ型だから、もし同じ事をしようとすればこちらは女系基準にせざるを得ない。生まれ持った仕組みなんだから差別も糞もないだろう」
「継承問題で性差別を持ち出す人はこの仕組みが解っていないのよね」
千鶴が補足する。それは構造的問題に無理解な平等幻想と呼ぶべきだろうか。
「皇室の継承問題とかが解りやすい例よね。女性天皇と女系天皇が混同されてる。天皇の娘が天皇になるのはそこまでは直系であるからOKなのよ。推古天皇などがそうね。でもその女性天皇の子供を更に天皇にするのは、そのお婿さんの男系になって血統が断たれちゃうからアウト。これが女系天皇が認められない理由」
「継承は系統維持の問題であるのに、地位獲得の機会平等と混同、あるいは意図的な錯誤をもって生じてる混乱と言って良いのかな」
「数千年の皇室の直系維持に比べたら、うち、志羽家なんかせいぜい数百年だもの。まったく畏れ多いけど。でも、そういう理屈でね、やっぱり秀一には後を継いでもらわないと」
結局そこへ行きつくのかと秀一が溜め息を漏らす。
「そうかー」
「という事で、飛代子にも解った様だからお開きにしようか」
霧子がそう言って立ち上がりかけると、飛代子が止めた。
「ちょっと待った!」
「何?」
「やっぱわかんない」
「何がー?」
霧子が面倒くさそうに言うと飛代子が食い下がって来た。
「だって血統だの血筋だの後を継ぐのって大昔からある事で、遺伝子がどーたらって現代科学じゃん。昔からそれを理由に出来てない筈なんだから……」
「あら、飛代子にしては良いところに気がついたね」
「しては、は余計」飛代子はむくれる。
「確かに大昔から遺伝学的正しさを根拠に出来てたわけじゃない。これはあくまで、かねてよりの手法の正しさが現代科学的にも証明された、という補足事項だよ」
聞いて飛代子は勝ち誇った様な笑を浮かべる。
「でも、それは証明手段が新しくなっただけで、元々手法は正しかったんだよ」
「どゆこと?」
霧子はちょっと腕を組んで考える素振りをした。
「うーん、シャーマニズムの女系集落の後に武力背景の男性社会が来てそれからの話になるから……おそらくね、はじめは男性社会の男性優位的慣習からのものだったんだろうとは思う。それであっても、外見やら能力的資質で所謂『 血は争えない』的な間接証明はされてたんだと思う。科学的証拠はなくともね」
「ほら、巷で見かける親子連れとか、笑っちゃうぐらいそっくりとかあるじゃない」
「そしておそらく、慣習を崩した時にこそ、それまでの様にはいかない傍証がより出て来たんじゃないかな?」
「傍証?」
「例えば、今で言う婿養子をとってから、先々代とは似ても似つかない子ばかりになったとかね。むしろ、そういう事例は昔の方が簡単に血のせいにされたんだよ。明らかに血を引いているにも関わらず表面的に遺伝形質が表れない事例の理由が解明されるのは近代を待たねばならず、それ以前は不義が疑われた」
「今より寿命が短かった時代は成長サイクルも早かったし、四世代同居が珍しくなかった事を考えれば、一族の中で他の家族と似てない人は目立ったでしょうね」
おそらく、そういった事例に纏わる悲劇には枚挙に遑がないだろう。
「科学的解明がなされる以前は統計学がその下支えになったのだろうが、これについては省こう。調査証明を不要とするところに本質があるからだ」
血統問題にだいぶ理解が及んだ飛代子は再び首を傾げた。
「私も遺伝学はさほど明るくないが、確か既に発掘された頭骨からの遺伝子解析とかそういう事はもう可能なんだよね、秀一君」
「あ、ええ、はい」突然話を振られた秀一は急に居住まいを糺すようにして続けた。「ヒトゲノム解析が終わってそういう事が出来るようになった筈です」
「じゃあ、現代人とご先祖様の骨の遺伝子を照合、という事も可能だね?」
「出来る筈です。でも、今はもっぱらネアンデルタール人とかそういうの調べてますよ。考古学レベルというか、人類発生学とかそういうレベルで」
「なるほど、一国の歴史の一家系の継承の真偽というレベルで利用されるのはまだまだ先か」
「よっぽど歴史上のターニングポイントになった人物の遺骨とかじゃないと、という感じじゃないですか」
そう言う秀一の顔を千鶴がまじまじと見つめる。
「……という事らしいが、いずれは一家系のレベルで、祖先の遺骨を調べて同じ血を引いてる事が女系の子孫の誰かに証明される、なんて事にもなるだろう。だが、ここで問題がひとつ。その場合は今度はその遺骨が本当にその当人のものかが証明出来ない、という壁がある。例えば、どこかで織田信長の頭蓋骨が見つかっても、それが本当に織田信長のものかは誰にも判らない。そういう事だ」
信長という極端な例でなくとも、自然死あるいは屋内での病死が疑われない事例でなければ特定は出来ないだろう。戦の際の大将馘首の真偽、戦略的に大名の死が数年間秘されたなどという事例等、平時でなければ記録とて疑義がある。
科学が進んでも、未来の技術によって過去を規定するのは意外に難しいのである。むしろこの場合は過去から規定された方法により未来にも継承すべきなのだ。
「父母の血を半分ずつ引いていれば双方の形質が受け継がれる。男系であれば明確に直系の証明となる。そうした事実は実感と慣習とで古くより広く共有されてきたんだ。だから、特別な知識がなくともそういう万人の共通認識において示される手段を選択するのが肝要という事だ」
やはり霧子の説明は小難しい。その大意は判ったがそれでも飛代子には納得しにくい事が残っていた。
「えーと、でも、やっぱり跡継ぎに不向きな人に跡を継がせるのが良い事とは思えないんだけども」
「賛成」ずっと黙って話を聞いていた安奈が言った。「それは本人が決める事じゃないかな」
安奈は同様に両親から父の跡を継ぐ事を求められ、だがそれを受けるか否かは自ら決めろと言われた。その上で自分で継ぐ事を決めた。だから何であれ秀一もそうあるべきと思う。
しかしその時、秀一は全く意外な事を言った。
「いや、僕は志羽家の跡を継ぐよ。それは決めているんだ」
「え?」
「志羽家の血の存続は、僕個人の自由なんかよりよほど重要だからね」
「本人はどうやら納得ずくの様だよ」
秀一は深く頷いた。
「だったらどうして?」
「姉さんの方が向いてるって言ったかって?それはまあ本音というか、統率力とか牽引力とかそういう資質は姉さんの方が優れてるのは事実だからね。でも、跡は僕にしか継げない。弟が出来れば別だけど」
ちょっと自嘲君に秀一は言う。
「それは名誉な事だし誇りでもある。だけど、個人の自由を犠牲にするぐらい重たい事なんだから、愚痴ぐらい言ったっていいだろう?」
何だ、そういう事かと一同の腑に落ちる話だった。姉弟だからこその戯れ合いだったのだ。
「しかし、ちづも秀一君も少し勘違いをしているよ」
ひとしきり笑った後に霧子が言った。
「跡継ぎに向いてる資質などというものは、どこの家の当主であれ、会社組織の長であれ大体が似た様なものだろう。生まれ持った向き不向きはあれど、それは訓練で獲得できるものでもある。だからその部分で劣等感も優越感も持つ必要はない。ちづも秀一君もね」
そう聞いて、千鶴は胸の中のしこりが取れた気がした。秀一から自分の方が跡継ぎに向いていると言われ、自身でもそう思うのに叶えられない事に悔しさが無かったと言えば嘘になるからだ。霧子は続けた。
「そんな凡庸な跡継ぎ向きの資質に囚われる必要はない。志羽家当主に求められているのは、血の中に受け継がれた”それ以上”の資質だからだ。そして、その資質は表に顕れなくてもいいんだ」
「……顕れなくてもいい?」
秀一が問い返した。声には出さなかったが、千鶴も秀一と同じ顔をして霧子を見た。
「そうだ。親から受け継いだものが必ずしも子に顕れるとは限らない。しかし、その要素は血の中に深く内在する。それを次世代に受け渡すことが重要なんだ。その資質はいわゆる隔世遺伝として孫の代に顕れるかもしれないし、もっと後の世代で顕在化するかもしれない。けれど、受け継がなかったらそこで消えてしまうんだ。だから血の継承は大切なんだよ」
そう聞いて、千鶴も秀一も少し泣きそうになっていた。
「親の様になれないと悩む全ての子供に聞かせてあげたいわね」
秀一も同様に思い「だったら、自分の無能さを誇ったって良いかも知れないね」と続けた。
「無能万歳!」
飛代子がふざけて言い、皆が笑った。
「だけど、そうなると別の意味で実感が湧かなくなるな」秀一が溜め息混じりに言った。「今までは自分が継ぐ事ばかり頭にあったけど、自分の子供に継がせるってテーマなわけだから。子供以前に誰かと結婚するヴィジョンもまだ思い浮かばないよ」
「かつての歴史上で血統継承を強いられた人達も別にそうした将来像が思い浮かべられたわけではないと思うよ。許嫁が決まってて強制的にあてがわれたりしてたのだから」
「さすがにそれは……自分で見つけたいけど、見つかるのかな?ピンと来ない」
秀一は自分が美少年であり、その気になれば引く手数多だという事に無自覚らしい。そのあたりにおっとりしているのはお坊ちゃんらしい部分かも知れなかった。
「あら、そんな事心配してたの?大丈夫。秀ちゃんなら可愛いお嫁さんすぐ見つかるわ」
そう庇う千鶴。
「もし見つからなくても、その時は私が秀ちゃんの子供を産んであげるから」
あっけらかんと千鶴がそう続け、一同は目が点になった。
「そんな例は歴史上あったわよね?」
「無くはないが、平安で既に同母姉弟間の婚姻は禁忌視されてるし、現代でその発言は流石にまずい……」
「あら、そうなの?」
霧子に指摘されても千鶴はきょとんとしている。
「やっぱこの家の人達はどっかぶっ飛んでるわ……」
飛代子が言って安奈が頷いた。浮世離れしているというのは、こういう事かも知れない。
「だって可愛い弟だし。そこら辺のどこの馬の骨とも知れない女に産ませるぐらなら、私が産んだ方がいいと思ったんだもの」
後日の千鶴の弁である。
少女十勇士番外編「Yの悲喜劇」─完─