倉谷卓 インタビュー「不可視なものをめぐって — 写真への振る舞いを問う」
アーティストの活動の端緒となるような経験=〈驚き〉に焦点をあてるインタビュー・シリーズ企画。アーティストが関心を持っている場所を訪ねて、話を聞きます。第2弾として写真家の倉谷卓さんとともに松戸・江戸川を訪れたのち、インタビューを行いました。
倉谷卓さんは2020年、松戸の「PARADISE AIR」でのアーティスト・イン・レジデンスを経て、江戸川の河川敷で拾った写真を同じく江戸川で拾った素材をもとに再構成したコラージュ作品『レリプカ』を展開中。本インタビューでは、その試みに込められた関心を端緒に、これまでの活動を振り返りながら、〈写真〉のあつかわれ方への疑問と自らの写真への関わり方について語っています。
(企画編集:西本健吾)
1. 写真のやっかいさ—断片としての写真が喚起するもの
「防波堤のような壁にもたれる男性」(2020)
——まずは、現在進行中のプロジェクトについてお聞かせください。
松戸の「PARADISE AIR」でのレジデンス前に、江戸川の河川敷で大量の写真が捨てられているのをみつけました。昭和20〜40年くらいの写真です。それらの写真に写っている場面を、同じく江戸川で拾ったさまざまな素材や破片で再現するということを試みています。
写真って、現実にちかしいものだったり、人の像が写っていたりするから特別なものに思えるけれど、そこに写っているのは断片でしかない。その意味では、自分と関わりのない写真は、もとが何なのかわからない破片と等価なんじゃないかということを、極端かもしれないけど言ってみている。そこでどんなリアクションがあるかということも含めつつ、作品にしたいと思っています。
——今日、一緒に江戸川沿いを歩いている際にいろいろとものを拾い集めていたのが印象的でした。そのような写真観の背後にはどのような考えがあるのでしょうか。
写真のやっかいなところって、見知らぬ人物や場所についての写真であっても、なんとなく知った気になってしまうことにあります。写真は時間の一部分を切り出したもので、本来その前後の文脈や背景は当事者以外、完全に知ることはできません。なのに、知った気になってしまう。「きれいなひとである」「身なりのいい男である」「幸福そうなひとたちである」というように。想像によって写真がある印象に限定されることの怖さがあります。確かロラン・バルトが、自分の母親の写真がいずれ、その個人名が失われて、この時代のこういう女性っていうようなおおきな括りに回収されてしまうことへの違和感を表明しているんですが、それに近い感覚です。
少し前に昭和天皇とマッカーサーが並んでいる写真のアナザーショットが何枚か発見されたということがありました。自分たちが知っている昭和天皇とマッカーサーの写真って、頭に思い浮かぶ「あの写真」だけど、他の写真では目をつぶってたり変な顔をしてたりしているんです。けれど「あの写真」によって、歴史の一場面としての横に並んだマッカーサーと昭和天皇の印象が強烈な仕方で与えられている。こうした写真のあつかわれ方を、〈フレーム〉というふうに呼んでいます。
——倉谷さんはもともとそういった違和感を写真に対して抱いていたのでしょうか?
通っていた写真の専門学校の当時の風潮が結構体育会系だったんです。「撮れ、撮れ、考えるな」みたいな。ひたすら街に出て体を張れってスナップを撮れという教育でした。「ちょっと情緒的なやつがいいんだぞ」というような写真観が共有されていて、自分も最初はそういう写真を撮っていたんですけど、だんだん写真そのものに疑問を感じるようになりました。それと、リチャード・プリンスというアメリカのアーティストにも影響を受けました。古き良きアメリカを表象するような70〜80年代ぐらいのマルボロのポスターを複写する、あるいはどこかの少数民族が撮影された写真を複写してその上にペインティングをほどこすというような作品を発表しています。商業的なイメージや、植民地主義的なイメージを広告から切り離して、ちょっと意地悪に再提示しているんです。
拾ったものとか中古の本に挟まっていた栞とか古い写真とか、なにかの残滓や見捨てられたもの、そしてそこからなにかを想像することがもともと好きなんです。でもだんだん、情緒的な仕方ではなく、一歩引いた視点でみてみたいというふうにかわっていきました。
2. 〈フレーム〉を疑う—写真にたいする振る舞いについて
写真集『カーテンを開けて/A Glimmer of Light 』(塩竈フォトフェスティバル, 2013)
——作家として転機になった作品はありますか?
分岐点となったのは、自分の父親が亡くなったことをきっかけとした「カーテンを開けて/A Glimmer of Light」(2011)です。父親はほんとにだめなひとで、だから死んで悲しかった部分もあるけど、楽になった部分もあったんです。彼が障害をもっていたことも含めて、消化したかった。ただ、肉親の死って写真のテーマとしては昔から選ばれやすく、お涙頂戴みたいなのにはしたくないという気持ちがありました。そこで裏テーマとして、ドラえもんみたいな、ある意味家族だけど機械というような存在が記録していってたものである、というような距離感を作ってみた。
その過程で、父親が写っている写真の写真を撮影しました。父親が生きているとき、父親の写真にはあまりおおきな意味はなかったのですが、いなくなってその価値とか役割とかがかわった。例えば、父親の写真を見て、「いいお父様ですね」みたいなふうに言われる。死んだ人を、人は悪くは言わないじゃないですか。実はダメな親父だったという話にはならない。そういうことも含めて、写真が時間とか環境で役割や機能を変えるっていうことを実感して、写真の特異さに気づいた。ここから、写真が喚起するノスタルジーや情緒みたいなものを疑ったり、写真の〈フレーム〉の存在を意識するようになりました。
「Pets」(2017) より
——「写真の写真」という観点でいうと、2014年から継続しているシリーズ「Pets」と、2017年の個展『Your Camera is My Camera』(Alt_Medium, 東京)で発表された「雪の白さに目が眩んで」が印象的です。
「Pets」は、行方不明になったペットの張り紙を複写したシリーズなんですが、父親の写真の役割や価値の変化という話とリンクしています。張り紙で使われる写真ってスマホやデジカメやハードディスクで眠っているようなものだと思うんですけど、被写体がいなくなったことで「探しています」という情報の機能を得ている。そして写真をみる人の眼差しも、感傷的なものに変化していると思います。画質・構図・出力方法・紙の貼り方なども含めて、人々の写真への振る舞いの多様さに注目した作品です。
「雪の白さに目が眩んで」は写真加工アプリ「SNOW スノー」が全盛期の、2016~17年頃の出会い系サイトの画像をあつかったものです。写真の編集が環境化して、これはやりすぎだよっていうような編集・加工が施された写真があふれていた。それを「プロフィール写真」とよび、ネット上にアップし、見る側も「写真」として納得する。イメージを恣意的に見せる/見ることの面白さを少し皮肉を込めてあつかった作品です。写真がどうあつかわれているかとか、それを操作する人間の振る舞いであるとか、あるいは写真を見る振る舞いであるとか、そういったものも含めて〈写真〉として考えています。
《雪の白さに目が眩んで》(2017) より
——「Ghost’s Drive」(2015 -)のシリーズは、珍しくご自身で撮影されている作品です。そこでも写真の〈フレーム〉への問いかけというのがあるのでしょうか。
これはまた別のベクトルの作品です。死者に対する人の振る舞いに興味があって、制作しました。山形の地元の隣町が舞台なんですが、軒先に車や飛行機が吊るされている様子を撮影しています。これは、お盆の時期、先祖の乗り物として飾られる「精霊馬」の別バージョンなんですが、以前は水草で編んだ馬を吊るしてたんです。それが、戦中戦後ぐらいに職人がいなくなったとかで、あまり作られなくなった。そしたら、車なら天国から帰ってくるのも早いし快適で、みんな一気に帰って来れるんじゃないかという合理的な理由で変更されたそうなんです。水草で馬が作られていたときは数年経つと川に流さなきゃならないというルールもあったそうなんですが、車や飛行機、バスなどのおもちゃになった途端に撤廃されたそうです。風習がここまでポップに簡素化された事例をちょっと自分はしらなくて。風習とか伝統という〈フレーム〉が軽やかに崩されている。死者に対する規範としての〈フレーム〉を揺るがすというところに、もしかしたら「写真」に対する規範的な〈フレーム〉を一度疑うという態度を重ねているのかもしれません。
「Ghost’s Drive」より
3. 不可視なもの・暴力・写真のゆくすえ
——2019年の個展「アリス、眠っているのか?」(Hasu no hana, 東京)では写真そのものもほとんど登場しませんでしたね。
この個展では、ここ数年ヤフオクなどで入手してきた古いアルバムの「台紙」で構成されたインスタレーションを発表しました。個人の小さな物語としての写真の外側には結像されていないバックボーンがいっぱいあって、その不確定さだったり膨大さだったりを表現するために、台紙に注目しています。見えていない部分の方が、見えている写真よりも自分自身とつながっているという感覚があるんです。結像したものの方が歴史や時間から切り離されているような気がする。
(インタビューの様子)
ヤフオクに出品されているアルバムは、その撮影者や撮影者の関係者にとって記憶の外部装置の役割を果たしていたはずです。けれど、出品された時点でそうした役割は失われている。代わりに、商品名とか検索タグで「時代考証にどうぞ」とか、「レトロ、ロマンを感じる人にどうぞ」とか、ちょっと下品なものだと「女学生」とか「水着」とか、そういう文言が添えられています。今の人間の欲望なり需要に従ってタグづけされている。さっきのバルトの話とも重なるんですが、こうしたタギングはとても微妙だと感じて、大きな枠組みの中の一部に回収するというのは、穏やかなようでいて、かなり強い暴力なんじゃないかという考えにいきつきました。
ただ暴力ということでいうと、古いアルバムから写真を剥がして台紙だけにするという行為を撮影し、映像作品としても発表したのですが、その行為が暴力的なものとして、ショッキングなアクションとして写ってしまった。写真がすでに剥がされているアルバムってなかなか見つからなく、購入したアルバムから写真を剥がすというアクションが加わったのが理由で、そこに着目してもらってもいるんですが、少し悩んでいるところでもあります。
「アリス、眠っているのか?」(2019)
——写真というメディアは、どうしてもそれを見る側にある〈フレーム〉に収めようとするような振る舞いを引き起こしてしまう。それを倉谷さんはある種の暴力と捉え、一貫して〈フレーム〉への疑いを惹き起こすような作品を制作されてきたのだと思います。そして、その作用は作家の倉谷さん自身にもおよぼされている気がします。倉谷さんは今後、どのように写真と関わっていきたいと考えているのでしょうか?
少なくともプロフィールは写真家のままです。もしかしたらまた自分で写真を撮影するかもしれませんが、写真の〈フレーム〉というテーマにはしばらく向き合おうと思っています。だから、写真という言葉がどこまで拡張していくのかには興味があります。さっき「SNOW スノー」について話しましたが、写真という言葉の定義をどこまで社会が受け止められるのかということも。あとは、デジタル化が進む現在、プリントされた写真のゆくすえも気になります。その意味でも、打ち捨てられた写真を拾ったのは新鮮な経験でした。プリントされた写真って本当にいらなくなるんだなって。
それと、DIY精神のようなものを養っていくことは大事になるのかなと考えています。2020年の3月に松戸で「QWERTY」というアーティスト・ラン・スペースを、いい意味でひねくれた写真の使い方をしている写真家3人と立ち上げました。極狭のスペースですが、駅前の路面にあるので通行人がふらっと鑑賞することが出来ます。やや敷居高く感じてしまう、ギャラリーでの鑑賞体験という〈フレーム〉を壊せればと思っています。
——時代の変化へと応答しながら、〈写真〉を倉谷さんがどのように見つめていくのか、とても楽しみです。本日は貴重なお話、ありがとうございました。
インタビュー日:2020年11月4日
撮影:澤本 望 (RAMビデオグラファー)
バナー作成:レーズン(Video and Game Maker, RAMインターン)
協力:PARADISE AIR
企画編集・インタビュー:西本健吾(RAMリサーチャー)
倉谷 卓(くらや・たかし)
1984年山形県生まれ。ペット、故郷の風習、家族、放射能、古いアルバムなど、多様なモチーフに独自の視点を注ぎ、現代社会における写真の役割、そして、写真と人との関係性をあらわにする作品を制作している。 近年の個展に「時代考証/レトロ/女学生」(QWERTY, 千葉, 2020)、「アリス、眠っているのか?」(Hasu no hana, 東京, 2019)、「Ghost's Drive」(ニコンサロン, 東京・大阪, 2018)など。またグループ展に「My Body, Your Body, Their Body」(Kana Kawanishi, 東京, 2019)、「Pets Friends Forever」 (DEUTSCHES HYGIENE-MUSEUM, ドレスデン, 2017-18)、「新章風景#2」(東京都 美術館, 東京, 2017)など。「2011 塩竈フォトフェスティバル写真賞大賞」受賞。
www.kurayatakashi.com
※本企画は東京藝術大学大学院映像研究科が主宰する「メディアプロジェクトを構想する映像ドキュメンタリスト育成事業」(RAM Association: Research for Arts and Media-project)の協力で行われました。
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