この家がいつも安心して帰ってこられる場所であるように
「ママは小学校好きだった?楽しかった?」と小学生になった娘に聞かれた。
「好きだったよ、楽しかったよ」と私は答えた。
「ママは家が嫌いだったから、学校がとにかく好きだったよ」と。
小学校から高校までの12年間、学校を休んだことがない。
義務教育期間は早退と遅刻もないから9年間皆勤賞だ。高校は皆勤賞とはいかなかったが、欠席は一度もない。人に話すと、結構驚かれる。
私が小学生の頃はまだ、土曜日は月に何度か午前だけ授業があった。
だから、学校に行けない日曜と祝日、長期休みが大大大嫌いだった。休みなんかいらない。毎日学校に行きたい。
学校だけが唯一の居場所であり、自由に息を吐ける場所だった。
小学校では「○○しましょう」と言われたことをしていればよかった。
あいさつしましょう、ゴミを拾いましょう、廊下は走らないようにしましょう、お友達にはやさしくしましょう。
先生の言うとおりにしていれば、怒られない。
大きな声であいさつをする、いつもゴミに気づいて拾う、姿勢よく歩く、困っている友達や泣いている友達にはすかさず声をかける。
先生が言うとおり以上のことをすれば、褒められる。攻略は簡単だった。
でも家は難関だ。ルールは母の機嫌によって毎回変わる。そう簡単に攻略できない。ムリゲーもムリゲーだ。
昨日よかったことが今日ダメになる。よかれと思ってやることが、仇になる。
「お姉ちゃんなんだから、弟の面倒を見なさい」と言われ、遊びたくもないブロックで弟と遊んでやっていると「弟のおもちゃで遊ぶなんて、自分のおもちゃで遊べばいいでしょう」と言われる。「面倒を見ろと言われたから」と返すと、「ああいえばこういう、この屁理屈が」と言われる。
母の許可を得ないと「勝手にやるな」と怒られる。かといって「○○していい?」と聞くと、「いちいち聞かないと分からないのか」と呆れられる。
「家の手伝いを自分からするのが当たり前だ」と言われ、手伝おうとすると「あんたがやると時間がかかるから余計なことするな」と言われる。
足手まといになるからと手伝いを避けていると「親の手伝いもしないなんて役立たずが」と怒鳴られる。
怒られて泣くと「うるさい!」「泣きたいのはこっちだ!」「ティッシュを無駄に使うな!」とヒステリックになる。
笑っていると「あんたは楽しそうでいいわね」「私はこんなに大変なのに」「なにがそんなにおかしいの?」と嫌味を言われる。
こういうのをダブルバインドと呼ぶのだろう。母にいつも混乱させられた。
記憶の限りでは、母から抱きしめられたことや、褒められたこと、好きだとか愛してるとか大事だとか、産んでよかったなどやさしい言葉をかけられたことは一度もない。
いつも眉間にシワを寄せて、イライラした口調で私に話す母の顔しか思い返せない。
どうすれば正解なのか、どうすれば母に怒られなくて済むのか、そればかり考えて言葉に詰まることが何度もあった。
フリーズして下を向いている私に向かって母は「そうやって黙ってればいいと思って!」と吐いた。
私の扱いと、年子の弟の扱いもまるで違っていた。
私には「手、洗ったの!?」「うがいしたの!?」「プリントは!?」「宿題やったの!?」と、猫が威嚇するようにキッと語尾が上がる。
対して弟には「手、洗った?」「うがいは?」「プリント出してね」「宿題できた?」と、首をかしげて弟の目線に合わせて語りかける。
完全な差別だった。
私は血液型が父と同じで、顔も父親似。発育が早く、勉強もできて、学校では優等生として目立つ存在。
弟は血液型が母と同じで、母親似。背が小さく、勉強が嫌いで、おとなしくて泣き虫。
「お前はB型だから、親父に似て自己中なんだ」とよく言われた。
血液型の特性を信じているなんて、今思えば低能で頭が悪い人間だとしか思わないが、子どもの頃は親の言うとおりだと思い込んだ。
母には他に、「思いやりがない」「頑固」「ひねくれ者」とよく言われた。何度も何度も言われるから、私は母の言うような性格の人間なんだと、洗脳された。子どもにとって親の言葉は絶対だ。そして未だに刻まれている。
小学2年か3年のとき、「自分はこんな人」の題で作文があって、私は「思いやりがなくて、がんこで、ひねくれ者です」と書いた。決してわざと書いたわけではなく、母から言われているとおりに書こうと大真面目だったが、母には「わざとこんなことを書くなんて親父に似て性格が悪い!」と激怒されたのを覚えている。
母は「親父に似て」と、私と父を同類扱いするのが常だった。
母にとって、か弱い弟は守るべき存在で、私はただの厄介者。
母は弟を「たぁくん」とあだ名で呼んだ。私のことはいつも「お姉ちゃん」と呼んだ。
私は弟の姉だが、母の姉ではない。一度母にそう言ったことがあった。
母は「また屁理屈ばかり言って、このひねくれ者が!」と怒る。
「父に似ているのは遺伝だから当然で、私にはどうしようもできないことだ」となどと正論を言うと、やはり「屁理屈だ、ひねくれ者だ」と返される。
そう言われるのが嫌で、次第に自分の意見を口にするのをやめるようになった。
私の感情や言葉は、母に向かって放たれた途端、粉々にされて踏みにじられる。自分の考えは自分の中でだけ留めておこう、我慢しよう、この人には何を言ってもダメだ、と諦めた。
弟とは1歳しか違わないのに、名前を呼ばれなくなり、可愛がられなくなり、こうも扱いに差が出るのかと思うと、少しだけ先に生まれた自分を呪いたくなった。
母と手を繋ぎ、「すごいねー」「えらいねー」と頭を撫でられる弟が悲しいくらい羨ましかった。
そして、姉よりも母に優遇されていると自覚した弟は、お姉ちゃんが僕の髪の毛を引っ張った、お姉ちゃんがピアノの練習してなかった、お姉ちゃんが本を貸してくれなかった、と母にいちいち告げ口をするようになった。
酔っ払いでたまにしか帰らない父
弟ばかり可愛がり、姉の私を命令口調で冷遇する母
自分が有利になるように姉の言動を告げ口する弟
家族の誰も信用ならなかったし、家にいるのが苦痛でしかなかった。
暴力を振るわれるわけでもなく、食事が与えられないわけでもなかったが、
心が休まらない家を、居場所だなんて思えるはずがなかった。
優等生で目立っていたせいで、一時期いじめにあったこともある。
仲良しグループからハブられて、上履きをゴミ箱に隠されたり無視され続けたこともある。
でも、完全に孤独になることはなかった。
先生やクラスメイトの誰かが必ず助けてくれた。同情してくれた。
家では誰も助けてくれない。先生から話が伝わると、いじめられるのは私に問題があるからだと一蹴された。家ではいつもひとりぼっちだった。
私が体調を崩すのはいつも決まって、学校がない日だ。
風邪を引いたり、熱が出るのも休みの日。
振り返ってみると、繰り返し大腸過敏症や帯状疱疹になったのも、髄膜炎で入院したのも長期休みだった。
家にいることがよほどストレスだったのだろう。(髄膜炎はストレスとは関係ないけど)
画一的で多様性がないとか、ルールが細かいとか、自分で考える力が養われないとか、学校教育の問題点が指摘されてはいるし、実際その通りだと思う。
だけど、私にとって学校は、心の拠り所だった。
学校には私を認めてくれる人がいた。話を聞いてくれる人がいた。
教師を目指そうとしたのも、学校が好きだったからだ。(結局ならなかったけど)
小学生になった娘は、いつも楽しそうに学校に行く。
帰ってくると時系列に沿って、学校であったことを話してくれる。朝は誰と学校に行って、1時間目は何をして、休み時間は誰とどんなことをしたとか、美味しかった給食のメニューとか、帰りは誰と帰ってきたとか、事細かに教えてくれる。
正直、ゆっくり話を聞けないこともある。空返事をして、聞いてるフリをしてしまうこともある。
「ママは家が嫌いだったから、学校がとにかく好きだったよ」と答えたとき、娘が言った。「わたしは家も好きだし、学校も好きだよ」と。
私の機嫌を取るために、媚びて言っているようには見えなかった。
娘は、私が母に愛されなかった子どもだと知っている。以前、私が話したからだ。
「ママも私みたいに家が好きだったらよかったね。やさしいお母さんだったらよかったね」と言ってくれる。
そうだね、でもママはもう十分。
やさしいお母さんには恵まれなかったけど、やさしい子に恵まれた。
私は母のようになりかけていたし、今でもなりかけてしまうときがある。自分の虫の居所が悪いと、感情的に怒鳴ってしまうことが。
でも、子どもにとって家がひとつの居場所だと思えるように、自分の感情に負けない努力をしている。毒親本を読み漁るのもその一つだ。常に戒めている。遺伝になんか負けない。母と同じ道は歩まない。
子ども時代の私がどんなに願っても手に入れられなかった、いつも安心して帰ってこられる場所を私がつくる。子どもと私のために。
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