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ITP発覚の日の話

1993年8月6日にITPと診断されて、今日でちょうど28年となります。

なので、今日はITP発覚に至った時の話を書きたいと思います。


当時の私は8歳で、小学3年生でした。

大きな病気はしたことがなく、年に一度くらい、たまに風邪で熱を出す程度。

なので、血液検査自体ほどんどしたことがありませんでした。

でも、小学校に上がる前から手足が青痣だらけだったので、もしかしたらその頃から血小板は少なかったのかもしれません。


きっかけは、8月5日の登校日。

あ、私は生まれ育ったのが広島県なので、8月5日が登校日だったんです。

5日に平和学習をして、6日は家、あるいは平和公園で平和を祈る、そんな感じでした。

そしてその日も平和学習が終わって下校しようとしていたお昼前、担任の先生に呼び止められました。

「少ないちゃん。身体が青痣だらけだけど、誰かにいじめられてる?」

私はとっさに何も答えられませんでした。

いじめにあっている自覚はなかったけれど、私に嫌がらせをしたりからかったりしてくる女の子が何人かいたからです。

「叩いたりつねったりされたんじゃないの? 相手は誰?」

名前を言わないと帰してくれないんだなと察した私は、時折私をふざけてはたいたりしていた女の子の名前を二人ほど挙げました。

たぶん、そこから親に連絡が行ったのだと思います。

以前から私の身体の青痣を気にしていた母は、意を決して私を病院に連れて行きました。

病院というより、田舎の小さな個人医院です。

血液検査をするなり先生は考え込んで、深刻そうな顔で言いました。

「紹介状を書くので、大きな病院に行ってください」

そんなわけで、私は翌日隣の市の大きな病院に行くことになりました。


8月6日。

私は大きな病院の小児科で血液検査をしました。

その時の血小板の数値は1.5万。

病名などは知らされず、すぐに入院することになりました。

母は入院の説明を受けると、荷物を取りに一旦帰りました。

私は小児科病棟の個室に連れて行かれ、そこでお昼ご飯のカレーライスを食べました。

病院食は不味いとよく聞きますが、とてもおいしかったです。

その後は色んな看護師さんが入れ代わり立ち代わり、体温や血圧や脈拍、耳たぶに針を刺して出血を見たり、いくつかの検査をしました。

そしてよく分からないまま処置室のベッドに寝かされ、骨髄の検査を受けました。

腰に麻酔を打たれた時はとても痛くて、声を上げないようにぎゅっと歯を食いしばっていましたし、身体は看護師さん二人がかりで押さえつけられていました。

あとで聞いたのですが、本当は骨髄の検査は母が病院に戻ってきてからするという話だったそうです。

命にはかかわらないけれど、子どもには痛すぎる検査ですからね。

結局のその日の夕方頃だったかと思いますが、両親と私とで主治医からITPであることを聞かされました。

聴いたことのない病気でしたが、小学生の私にも分かるように、血を止める働きをする血小板が少なくなって血が止まりにくくなる病気、と教えてくれました。

脳内出血を起こさなければ命にかかわることはない、という説明でようやく両親は安堵していたと思います。

私も死ぬ病気じゃないんだと割と楽観的に捉えていました。

それにまだ8歳だったので、急性の可能性もあると。

まあ、慢性だったんですけど。

そこからプレドニンやガンマグロブリンによる治療が始まったのは以前書いた通りです。


あの日から28年。

確かに私は死なずに生きています。

ITPが直接的な原因ではありませんが、精神を病んだことで自殺未遂も何度もしました。

今だって、常に死にたいと思っています。

でも、こうやって私が生きてきたことが、他のITP患者さんの誰かの希望になるのならば。

それ以上に嬉しいことはありません。


最後になりましたが、76年前の原爆犠牲者の御霊に哀悼の意を表します。

Pray for HIROSHIMA,NAGASAKI and Japan.

Pray for the world.

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